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日本の部活動は部員に「感謝」ばかりさせているが、もっと「調子にのらせた」ほうがいい

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>


まったく勉強をしていないし、成績も悪いのに、そのうち自分は東大にいけるんだと謎の自信を持ち、「勘違いしている子ども」がいる。
逆に、自分の成績を直視し、自分が行けるであろう堅実な大学を見据えて進路選択を考えている、「勘違いしていない子ども」もいる。

将来が決まっていないのが子どもであり、将来に開かれているのが子どもの特権みたいなものなのだから、子どもには、多少「勘違い」していてほしいなと思う。

しかし、日本の大人は圧倒的に、子どもたちに「勘違い」させないように教育している。
子どもたちが「調子に乗る」ことが、悪かのごとく、徹底的に慢心を戒める。

子どもに対して、勘違いさせなかったり、調子に乗らせなかったりするのは、いいことなのだろうかと、ふと考える。

日本で教育に携わる人たち、特に、スポーツの指導者は、選手を調子に乗らせないことを徹底しているように思う。
そういう、調子に乗ることを排除する姿勢が、威圧的な指導や体罰とリンクしている側面もあるように思う。

日本人は「下手に出る」ことを良しとするので、自分の意見を言う際にも、なんらかのアピールをする際にも、「自分は大したことないですよ」と卑下しなければならない。

自分を卑下し、へつらっていると、評価する側の人が、その反動として褒めてくれたり、良い部分を言ってくれたりするので、日本人のへつらいは加速していく。

逆に、鼻っ柱が強そうな人がまったく自分を卑下せずに、堂々と意見を表明したりすると、話の内容が同じであっても、批判的な評価が返ってくることが多い。
日本人は、徹底的に、「調子に乗らせないぞ」というところがある。


去年くらいだったか、あるプロ野球選手がベンチに戻った際、自分の用具を投げつけて、骨折したというニュースがあった。
その選手は高校時代から強豪校に所属していて、用具メーカーから無償で用具を支給されていたらしく、そのことに言及したファンが、「若い時から当たり前に用具を支給されて、調子に乗ってたんだ」とコメントしていた。

確かに、強豪校の高校球児は「金の卵」なので、そういう面もあるのかもな、と思いつつ、でも、その選手は、調子に乗ることで成績を伸ばすタイプの選手だった可能性もあるんじゃないかしらと、思った。

スポーツでは、イチローのように、スポーツ用具を自分の身体の一部のように考えるタイプの選手から、テニスの選手のように、ラケットをへし折ることで精神をコントロールするタイプの選手まで、用具の使い方は様々で、それが、「調子に乗ること」に直結しているのかどうかは判断がつかない。


スポーツの指導者が徹底的に選手を調子に乗らせず、勘違いさせないようにする姿勢の根底には、仏教的な思想がある。

「練習が始まる前も後も、徹底的に、モップ(やトンボ)をかけろ」
というのは、掃除も修行の一つとする「作務」の思想だし、
「お前らがプレイできるのは、親御さんのサポートがあるからだぞ」
と言うのは、スポーツができていることの「前提」に目を向けさせることで、
「足元を見ろ(脚下照顧)」という教えだし、
監督やコーチと選手との関係は、禅林における「師弟一如」を想起させる。

日本の部活動ほど、指導の中に「感謝」という言葉が出るスポーツ現場は世界にも、まずないだろうし、時に、日本の部員たちは新興宗教ばりに、「感謝」ばかりさせられているが、日本でスポーツが「宗教」っぽくなってしまうのは、仕方がないことである。
この国では、「練習」がいつのまにか、「稽古」や「修行」になってしまう。


話はすっかり変わるというか、違うところから「調子にのらせないこと」を考えてみると、芸人のビートたけしさんに関するエピソードが頭にのぼる。
たけしさんは、レストランやバーでたまたま若手芸人に会うと、「お前らは大丈夫」と必ず声をかけてくれたという話がある。

その話が本当ならば、たけしさんは会う若手、会う若手に、「お前らは大丈夫」と言っていたわけで、それによって後輩芸人は、「たけしさんに認められた」という安心感を得たのだ。
そして、たけしさんも、その中の一部の芸人が後に本当に売れた際に、「以前、たけしさんにこう言ってもらえた」というエピソードを話してもらえ、自身の印象は高くなる。

つまり、直接、後輩芸人を教育する立場にないたけしさんにしてみれば、若手を褒めて「勘違い」させることに「得」はあっても、「損」は何一つないのだ。
(たけしさんはそういうつもりで言ってないだろうけど)
(それに、芸人は、「勘違い」したい人が進んで就くような職業だけど)


たけしさんが若手芸人に与えているのは「安心感」である。
「安心感」があれば、その人本来の実力を示すことができる。

「調子に乗る」「勘違いする」というのは、すでに実力が示せて、現在の状態に慢心している人が陥る状態である。
まだ「慢心」まで行かない「若手」は、「戒め」「引き締め」の前に、「安心感」を得ることが何より必要であったりする。

日本では、まだ「井の中」にいるような「若手」に対しても、うっかり彼らが慢心してしまわないよう、「安心感」を与えるのではなく、「調子にのるなよ」「勘違いするなよ」と、戒めすぎているような気がする。
「井の中の蛙になるな」というのは、子どもが「立派な井の中の蛙」になってから言えばいい話なのではないだろうか。

それには、「戒め」の前に、「お前は、大丈夫」と、「安心感」を与えてくれてる人の存在が必要となる。
教育現場でも部活動の現場でも、求められているのは、そういう大人なのではないだろうか。

子どもたちに「感謝」させることも大事なことだが、ある程度、子ども達が「調子にのって」、慢心できるくらいの実力を発揮してくれないと、この国の未来は、これから数十年、また暗いままになってしまう。
子どもが「我々の未来」なのだとしたら、「未来」には、縮こまらずに、のびのびとしていてほしい。

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