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残された哀しみ、面倒臭さ割り ー『お葬式』
ずいぶんと「ご丁寧な」映画だと思った。わざわざ「ご」を付けたのは、「丁寧で見やすく作られている」というよりも「物事全てを丁寧に映しすぎる」という印象が強かったからだ。
例えば物語の発端となる真吉の死の場面では、胸の苦しさから這いつくばった真吉が妻のきく江に助けを求め、介抱され、隣家の精神科医に相談した結果タクシーで病院まで行き…という経緯が確と映されたのち、主人公の侘助のナレーションによって死んだことが観客に告げられるのだが、これはいささか生真面目に過ぎる構成ではないだろうか。映画を筆頭とした編集という工程があるメディアでは、「省略」という魔法が使える。作家たちはこの魔法でもって見せたくないものを隠し、見せたいものを見せることができるのだ。その定石で言えば、例えば「真吉の死」は直前の無事健康診断が終
わってご機嫌な彼の様子からいきなり病院で帰らぬ人となった彼の身体を映すとか、あるいはそれすら映さず侘助夫妻への電話によって間接的に明かすような形の方が簡潔で高等なはずだ。
では、この映画は、観客へ懇切丁寧に説明をしようとしたあまりに映画的快楽を損なった、いわば慇懃無礼な作品なのだろうか?そうだとも思うが、しかし、それだけではないとも思う。というのは、この作品の語り口の冗長さは、主題であるお葬式という儀式の冗長さと照応しているからだ。本作で面白がられているものは、本質がすっかり雲隠れしてしまった葬式という儀式の不思議さと、それを執り行う人間たちの滑稽さだ。死者の鎮魂に関係があるとは思えない枕の向きや挨拶の文言や僧侶へ渡す金額など、さまざまな手続きにおいて一々手間取り、衝突する人々の姿は実に笑える。そうした「お役所的」とも言える面倒臭さが、実は映画自体の編集構成においても表現されているわけだ。また葬式とは別の、侘助の不倫相手・良子とのやりとりも実に象徴的である。良子は葬式会場で手伝いのためと言いながらやって来るや、なぜか悪目立ちするようなもめ事を起こし、見かねた侘助に帰らされそうになると「自分を愛していないのか」とまくしたて、泣き出し、逃
げ出す。そして追いかけてきた侘助に「愛しているなら抱いてみろ」と迫り強引に濡れ場が始まるのだが、この一連の動きは結局のところ良子が侘助を振り回したいがゆえの戯れである。やり取りを経てなにか二人の関係性が進展することもなく、単に一つの承認欲求が発散されるのみという点で、こうした男女の逢瀬もまた「お役所的」な、つまりは儀式なのであり、その点で葬式と同じようにむず痒く、滑稽なのだ。
だが、そのような儀式が単に人を惑わせるだけの悪しき因習に過ぎないのかというと、そうとも言い切れない。葬式を取り仕だ切る際の慌ただしさは、遺族の抱える哀しみをやり過ごすことを助けるというのはしばしば言われることであるが、この映画のように葬式の面倒臭さが強調されるとそれがより実感できるだろう。そうした点で注目したいのは物語のラストである。ひとしきり葬式の段取りを終え、いよいよ結びとして近しい遺族の前で代表者がお礼の挨拶をするという段で、挨拶をする予定の侘助に対してきく江が「自分が話してもいいか」と申し出て、急遽役割を譲り受けて話し出す場面。きく江は実に朴訥と飾りのない、しかしだからこそ誠実な言葉をぽつぽつと紡ぐ。カメラもまた、それに寄り添うようにきく江の顔をアップで長回しする。おそらく多くの観客は、この場面で初めて真吉という人物の死に(架空の、しかも生前の姿もほとんど知らない人物なのに)心から痛み入るのではないか。「代表者は一族の家長」という暗黙を破り、特に台本も用意せずいわばアドリブで話すきく江の言葉にこそ、真の哀しみが宿るのである(この直前に真吉の兄の行う挨拶が実に形式ばっており、感情の感じられないものだったのとは対照的だ)。それは単なる美談ではない。葬式という儀礼の枠から外れたとき、人はむき出しの哀しみと向き合わなくてはいけないという苦々しい真実の示唆でもあるのだ。そう、儀礼とは、人があまりに威力の強い感情を希釈するための割り水のようなものなのだ。
そしてそれは、映画も同じではないだろうか?映画などという、本質だけを取り出せば大抵は陳腐なものをそれでも娯楽たらしめているのは、脚本・撮影・編集のさまざまな「段取り」の力であると言えよう。『お葬式』は、その主題と構成の密接な絡みつきによって、そうした「儀礼」の功罪・悲喜交々を私たちに示し続けているのではないだろうか。