友だちかもしれない
楽に生きてるように見える人でも、たぶんその人にしかわからない苦労があるのだろうけど、つい「あんなふうに楽だったらなー」と思ってしまう。運のいい、悪いも、それまでの努力や布石があったからなんだろうけど、「私にもツキさえあれば」と思ってしまう。
苦労や努力って、絶対評価。してるその人の評価でしかなく、他人と比べることに意味はない。同じようだとしても、人の質や状況なんかで全く違う。
そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうしても他人と比較して自分のツキのなさを嘆き、他人をうらやんでしまう。
自分がもっとオープンな性格だったら、人見知りじゃなければ、チャンスが巡ってきたんじゃないか。もっと見た目がよければ、明るい性格だったら、図々しさがあれば、悪気なく厚かましいことできたなら…。
でも、ないものをいくら論っても仕方ない。そこに目を向けるより、自分が持ってるものを活かす方法を考える方がいいとわかってる。その方が生産的だし、チャンスも生まれる。
わかっているけれど。わかっていても、そうできないのが私の性。
無駄は好きだけど、こんな無駄はいらないのにな。だからチャンスなんか巡ってこないし、出会わないし、作り出すこともできないんだよな。と笑うしかない。
自分のせいかもしれないけれど、でもどうにもツキのない人もいる。
人がよくて損しがちだったり、譲ってしまったり、図々しさに押されてしまったり、厚かましさに押しつぶされたり、利用されて萎れてしまったり。
そういう人たちはどうしたらいいのだろう。その人の質だから仕方ないで済ませたくない。
自分がそうだからなのだろう、損しがちだったり、うまくいかなかったり、ほめられなかったりする人に共感する。そして、この人たちが浮上できたら、自分も浮上できるのではと思ってしまう。
自分のことは別なのに。人が幸せになるのを見て幸せを感じるのは一瞬、余計みじめになるのに。
友だちと呼べそうな人から急にメッセージが届いて、お互いのできないを書き合いっこした本日。
「人がほめられてるのを見ると胸が痛くなる、自分はどうしてああなれなんだろうと落ち込んじゃう」
「それは嫌な気持ちというより、向上心ととらえましょ」
劣等感を向上心に変換。すごいことを言う。そんな変換方法、未だかつて気づきもしなかった。
彼女の悩みや愚痴を聞くはずが、慰められ、励まされた。あやさん、ありがとう。
手が届かないけど、手が届かないことを見て見ぬふりせずに現状を認めること。それが進むためには必要なのだろう。
損してばかりの他人を浮上させる手伝いをすることで満足感を得るのも一興。でもそれだけじゃ、きっと卑屈になっていくばかり。
もっと自分を浮上させることをやらないと、どこまでも沈んでいく。沈殿した澱の中で自分を哀れんでもいいけれど、それじゃ救われない。自分を救えるのは自分だけ。
誰かにすくい上げられるのを待っていても仕方ない。そんな誰かに出会うツキ、私にはないもん。
自分で自分を救わなければ、私は救われない。救われたいなら、救えばいい。
次に彼女と会うとき、1センチでも浮上できてたらいいな。今度は私の番。彼女の悩みや愚痴を聞ける状態になっていたい。
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす