衣替えの季節
言葉って、とても不思議だ。言葉で表現されると、記憶や経験と連動して、イメージがかきたてられる。「ウリの漬け物」と言われると、これまで食べたことのある「ウリの漬け物」の香りが思い起こされ、その記憶をよすがに、ワインの香りを微細に探ることが可能になる。
また、こうも言えるだろう。「ソーヴィニョン・ブランの特徴的な香りは、グレープフルーツだ」という知識(言葉)だけがあったとしよう。すると、その言葉に引っぱられて、「ソーヴィニョン・ブランです」と出されたワインに、グレープフルーツの香りを感じ取る。そのワインが、本当はソーヴィニョン・ブランじゃなかったとしても、だ。つまり、「変だな、グレープフルーツの香りはあまりしないようだぞ」と感じても、「ソーヴィニョン・ブランなのだから、グレープフルーツの香りがするはずだ」と思いこんでいたら、鼻が勝手にグレープフルーツの香りを嗅ぎわけてしまう、ということもありえると思うのだ。
それぐらい、言葉の威力、感覚や認識に及ぼす影響力、なにかを限定する力は、強いと言える。言葉の力のすごさと怖さを、つくづく実感した。
三浦しをん・岡元麻理恵 著「黄金の丘で君と転げまわりたいのだ」より
先日、知り合いと出かけ、ふたりで6時間くらいすごした。その多くの時間を移動に費やし、ふたりきりの車内でたくさん話をした。
「なりたい自分より、すこし大きめをイメージした方がいいと思うな」
なんの話だったか忘れたが、私はそう言った。
「国会議員とか首長とか、みんなさ、当選回数が増えるに従って態度がえらそうになっていくじゃん。最初は一般市民だったのに、周りの扱いが変わって、それに慣れて段々振る舞いが扱いに一致していくからだと思うんだよね」
「謙虚な人は一回り大きめにイメージしてそのように振る舞っていれば、謙虚な分ひと回り小さく、ちょうどいい按配のなりたい自分になれるんじゃないかな」
人は変われない。それが信条。
根本は変わらない。
でも、もともと持っているものであれば、引き出すことはできると思う。
奥底に置き去りにされたものを、どうやって引き出せばいいのか。
それが、言葉の力ではないだろうか。
つまり暗示をかけてやる。自分に。
なりたい自分でも、ありたい自分でも、自分はこうだ!と言葉で表現する。たとえば、毎日日記で書いて、見てする。友だちに伝えておいて、言ってもらう。
そして、そんなふうに振る舞う。
キャッチに捕まりたくないなら、キャッチに捕まらない人の真似をしてみる。捕まっても振り払う様子も真似してみる。
そんなふうにしていたら、自分の中にあるものであれば出てくると思う。
あるなら。
あると信じてやってみる、のも一手。
もしかしたら変われるやもしれませぬ。
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす