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地方創生と進化論【バリから始める地方創生(9)】

ものすごく

ものすごく久々に書きたいことができたので書くいておくことにしました。地域おこし協力隊になってちょうど4年が経ちます。この間、ずっと「地方創生とはなんだろう?」と考え続け、アクションを起こしてきました。今までやってきた「まだ知られていない魅力を商品化して伝える」をここでもやらせてもらえた環境に感謝するとともに、ようやく見つかった答えらしきものをここに記しておきたいと思います。僕がそうであったように、「地域おこしってなんだろう?」の答えへのヒントになればうれしいです。

移住者が増えていけば成功なのか?

僕がやってきた島根県美郷町。4年前に来た時の人口は4700人。この前役場に行ったときに目にした看板ではなんと4000人に!今更ながら過疎地の現状を実感した瞬間です。人がそれだけ離れた町では経済は外に流れます。買い物は町外、遊ぶのも町外、そうなると町内のお店は存続が難しくなり、つまり働き場所もなくなってしまい、ますますもって経済は流れ出てしまう。働く場所が町外、買い物も町外ならばいっそのこと町外に移り住んだほうがいいじゃないか。そうなるのは自然の流れだと思います。

その結果が過疎地。限界集落。別に誰かが仕組んだのでも悪かったのでも全くない。”地理的にそうだった”というのが一番の、そして飛びぬけた理由。それもあくまで現代においては、という但し書きがつくんですよね。歴史的にみれば中国一の暴れ川と呼ばれた江の川が流れる美郷町は、山陽と山陰を結ぶ水運の重要拠点でもありました。さらに石見銀山から続く銀山街道もあり、当時はとても賑やかな土地だったのです。

とはいえ三江線というローカル鉄道も廃線となってますます人口の減っている美郷町。歴史はどうあれ今は人口4000人です。ここに来て僕は心惹かれるたくさんの人や物や場所を見つけましたが現状は現状です。ここから自然発生的に人口が増えるわけもない。かといって1000人単位の移住者がやってくる、というのは現実的でないし、それよりもそれが実現したとして日本全体が人口減少していく中、それは地方創生の成功になるんだろうか?

指先の痛みは人生を左右する?

「地域おこしってなんだろう?」ここ半年くらい僕の頭にあったイメージは日本全体を一人の人間としてみることでした。日本という人間がいて、指先に血流(エネルギー、栄養)が回らなくなっているんですね。このままじゃ指先は壊死するけど体全体でみればたかが指先のこと。自然にそうなってるから放っておけばいいのかもしれないし、指先が壊死したって生命に危険はないのかも。

 むしろそこを守るために大量のリソース(税金とかね)を注ぎ込むのは全体を衰弱させてしまわないか。もしくは壊死が全体に影響を及ぼす前に手術で指先だけ切り取ってしまうのがいいかもしれない。(現実的ではないけど、集団移住とか)

川のほとりの小魚と

そんなことを考えている中、昨日は地元の人たちと協力隊で開催した「夏Asobi!」という鮎のつかみ取りや手作り屋台で盛り上がるイベントの日でした。鮎のつかみ取りは江の川の端っこで網で仕切りを作り、簡単ないけすを作ります。前日はその準備で川べりの草を刈ったり、石を片付けたりしてたんですが、その川のほとり。草が生えていて川の主流とは少しへだたりがあるんですね。最近は雨が少ないのでそのほとりの水はあまり主流に流れていかず、ちょっと停滞してるんです。全く流れていないわけではないので鮎を放しても快適な状態ではあるんですが、まあそんなに生物がすみやすい環境ではなさそう。

作業の合間にそのほとりを眺めていると、いるんですよたくさんの小魚が。それも想像よりもたくさん。5mmくらいの小さいのもいれば5cmくらいの地べたをはい回るような小魚もいる。決して快適な環境とは言えない場所で小魚がいて、ということは小魚が食べる藻が育っていて、ということは藻が育つだけの栄養もある。

こんな場所でも生態系は回るんだなあ。

生物は自然と生きやすい場所に集まる。だとしたら人間だけがそれに抗って地方創生を掲げているのかも。それって自己満足にすぎないのかも。

でもそこで何かが繋がったんです。

「あ!進化だこれは」

地域創生と進化論

生物についてそれほど詳しいわけではないけど、過酷な環境にむしろ適応して生きていく生物がいるんですよね。世界には硫黄を栄養源に生きている生物や水すら飲まずに生きていける生物もいる。つまり地方創生の本質とは、生きるのに不都合に見える過疎地でも進化を遂げることによって新たな生き方を見つけようとする行為なんじゃないか。

壊死しそうだから切り捨てよう、からは進化は生まれない。むしろ都会の暮らしの限界も見えてきている現代において、新たな生き方を見つける進化の道を地方に求めることは人間全体の可能性を広げるための行為なんだ。

進化、アップデートでもいいのかもしれない。でも進化のほうがしっくりくるんです。そう考えるとわかることがあります。

地元の人たちは現状で栄養の十分回っている人たちです。その環境に適応してるからこそそこで暮らしているわけです。だから新しい人がくるということはそれを奪われる可能性が生じます。だからどうしても警戒する。一定数、外の人を受け入れたくないという住民が出てくることは当然かもしれません。

ただ過疎化が進めばその人たちの暮らしも成り立たなくなっていくことも事実。一方で進化を求めるならばそこでの暮らしを理解することが必須、つまりすでに理解している地元の人とのつながりは不可欠なわけです。だからそのお互いが完全な理解のもとじゃなくても、手をつなぎ合えれば人は新しい進化を遂げることができるんじゃないでしょうか。

食べ損ねた鮎

僕はこの問題は人口減少の続く日本全体の課題だと思っています。地方創生の取り組みは大げさに言えば人間全体の話です。海外で長く暮した僕の思いは大好きなこの日本がいつまでも元気で優しい国であること。それには”強い”も含まれるかもしれないけど、子供たちがもっともっと楽しく暮せる社会がいつまでも続くように、今もう少し僕もこの地方創生の舞台でがんばろう。

これを読んでくださったどなたかの考えの一助になれば、頭の中をさらけ出した甲斐があったというもの。普段は別にそんなたいそうな生き方をしてるわけじゃなく、昨日は鮎を食べ損ねたなーなんてうじうじしてる人間ですが、また新たな答えが見つかったらここで書き記したいと思います。みつかるかな~どうかな~。




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