父、伯父の子供時代
父の死
4月25日、父が亡くなった。誤嚥性肺炎で入院し、一進一退の体調だったので、ある程度覚悟はしていたから冷静に対応できた。とは言えコロナのご時世で見舞いには行けず死に目にも会えなかったのは悔いが残る。後から思うと「泣く」タイミングを失ってしまった。
前日、「1日前」の写真が送られて、「やばい」と直感した。でも、コロナだから面会は叶わないだろうと思い、焦るような感じにならなかった。一応ダメ元で妹に確認したがやはり面会はNGと返事。それを理由にしたくないけど「やっぱり会えない」と決めつけ、会うことを諦めていたので初動が遅れた。加えて3回目のワクチン接種を23日の夕方にしたので「熱のせい」もある。父のヤバさを感じたのは39度4分の最中だった。気づかないうちにコロナに翻弄されていた。次に連絡が来たら起きて行こうと思った。その判断が間違っていたのだ。判断を間違えたことを受け入れて喪服を車に詰め込んだ。こんな準備する前に1秒でも早く車を走らせるべきだろと、批判されるかもしれないが、なんかもう、間に合わないんだと直感が走ってしまったんだ。
最終的に1人ずつ面会できることになっていたと後から聞いた。そんな情報なんて届くこともなかった。妹からは「間に合わないかも」とLINE。妹は判断の甘さを嘆いているようだった。
結局2時間遅かった。
前日の「やばい」の感覚に従っていたら間に合っていた時間だ。どこかで先に間に合わないと判断した自分。父は最後に一目俺に会いたかっただろうか。妹から聞いた話だと、心拍数が「0」に4回なったらしい。つまり4回蘇生したのだ。
俺は勝手にいつもこれが最後かもと思って別れていたから後悔は少ない。でも父自身の気持ちを組んであげてただろうか。違うな。
自分勝手な父というイメージだったけど、1番の自分勝手は俺だった。
伯父の話
帰りつくなり、葬式の打ち合わせ。いきなり「金がない」と言われた。両親が残した貯金はどこへ消えたのか。疑問と憤り、怒りが込み上げたが母の顔を見て堪えることができた。淡々と打ち合わせをして何とか予算を抑えることができた。
そして自然と親戚の応対は妹、葬式経費は自分となり、「喪主」となった。妹は金がかかりそうな時、俺を持ち上げ金の責任を押し付ける。いつも正論みたいな事を言うが実は暴論ばかりだ。それが無意識なんで余計に始末が悪い。
不満を抱えたまま葬式の準備に入った。
父の死で5年ぶりに会う親戚たち。特に父の弟である伯父さんに会えたのは嬉しかった。そのおじさんも体調が思わしくないので今のうちに聞けることは聞いておきたいと思った。父が死んだのに変に冷静な自分にゾッとしながら。
お通夜の時、伯父から色んな話を聞いた。ゆっくりと思い出せる範囲で。話してくれる伯父さんもそこまで体調は良くない。必死の思いで遠路はるばるやってきた。最後の別れを、その一念の為に。父の訃報を聞いてから一睡もできず色んな思い出が蘇ったそうだ。
家族に歴史
葬式が終わった次の日、墓参りに行った。墓参りの後、伯父さんから古い、でも立派な家屋の家がこの先にあり、友達の家だから見てきて欲しいと言われた。そう言えばあまり周辺を散策したことがなかった。伯父が言うのだから父にも似たような記憶があった筈だ。しかしそんな話は一回もすることなく終わった。父はあまり自分のことは語らなかった。日記もない。いや、見つかっていないとしておこう。
伯父に言われて言った先には古いお寿司屋さんがあった。従兄弟が通りがかった人に尋ねると、随分前に廃業したらしい。しかし、伯父の言う通り立派な家屋だった。声かけをしたが返事はなかった。そこで表札を撮影し伯父に見せた。伯父は懐かしそうに友人の名前を見た。そんな伯父を見て、父の交友関係をもう少し知っていたらと思う。今更だが。