死について考える【34日目】
ふと、思い出の品を手にした時、思い出すのは幼い頃の思い出。
その頃を懐かしむと、あの頃の幸せと、いまの幸せと、今後の幸せを考える。そして、ふと、今後の、その幸せが消えた瞬間を予想してしまう。そうなったとき、悲しみに、懐かしの人との別れに、どれだけ耐えることができるのか。いや、耐えられないだろう。それを考えただけで悲しみの奈落へ落とされる。自分の死よりも、人の死のほうがよほどきついのだ。
もちろん、自分の死も怖いが、自分が死んだ後というのはないわけで、死ぬ瞬間は一瞬で、その悲しみの苦しみをずっと引きずることないのだ。もちろん、人の死に、大切な人の死に、それ以上の幸せを重ね合わせればいいのだが、果たして、その幸せを私が手に入れることができるのだろうかと。
死とは必ず訪れるもの。つまり、別れとは必ず訪れるもの。卒業式のようにまた会おうはできないのだ。同窓会はないのだ。もし、仮に天国があって、そこで同窓会ができるならば、それほど嬉しいことはない。そうじゃないのならば、死はサヨナラだ。
死を受け入れるにはそれだけの心の器が必要であろう。しかし、よく漫画やドラマであるのは、小さい頃に親を失う子だ。その子は小さいながらにして、親を失い、さよならしてしまうのだ。小さいからあまり記憶に残らない、いや、残るだろうが、しかし、長年過ごしてきたという感覚はなく、親族が亡くなった方の感情だけが先行き、そういった悲しみに暮れるだろう。小さいとは5歳くらいのことを指して考えていたが、例えば、中学生や高校生ともなるとどうだろう。その気持ちは思春期もあって、かなり心にダメージを与えるだろう。
そうした人たちはどうやってその後を立て直していくのだろう。もちろん、亡くなってしまったものは仕方のないことで、もう取り戻せないことで、いくら望んでも叶わぬことだ。そういった諦め、踏ん切りをつけるといった判断になるのか。そこまではかなり時間はかかるだろう。だろうが、人間は忘れることのできる種族だ。だからこそ、そういった悲しみを断ち切って次へ向かえる力がある。その踏ん切りは人それぞれだが、それ以上の幸せを体験スル方向性が一番良かろう。そういった体験へと導けるように日々の積み重ねというのは大切なのだ。そういった感情に陥った時、日常の、ふだんのことは手に付かないだろう。日々、やらねばとやってしまわないと、それでも手に付かないだろう。どんなに日々のルーティーンにしても、手につかないだろう。でも、それだけルーティーンにしないと、行けない気がする。もちろん、それから新しいこと始めても良い。だが、それまでの期間が、それをどう過ごすのかが、そこがどれだけ人生を無駄なく生きるかに、いや、この考えは、あまりに合理的すぎる。効率厨だ。あまりに。そういう考えで動いているから、こういう人間になってしまったのかもしれない。いや、そうだ。そもそもそういう考えを持っているにも関わらず、何もしていない今は何の効率があってこうしているのか。まったく無駄な人生を歩んでいるだけではないのか。なぜ、そういう現実に目を向けないのか。なぜ快楽ばかりに手が伸びてしまうのか。脳の快楽に、ギャンブルをさせているが如く、腐っていく己が見える。私はゾンビかも知れない。