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死について考える【80日目】

生きていることが素晴らしいと感じるには、それなりに死を覚悟した後なのだろうか。それとはまた別なのだろうか。

雀が鳴くのを聞くと、なんと平和なことだろうと感じる。鳩が集まっているのを見ると、なんと平和なことだろうと感じる。

そうした、心の安らぎも時には必要なのだ。死ぬまでには成長を続けなければならないと、そう感じる。感じるというよりは、そういう話を聞いて、私の意識もそういう考えになったというべきだろう。成長といえば、それこそ、厳しい訓練を経て、といったものを連想させるわけだが、時には休むことも大切だということ。それは自然と触れ合い、自分の内面と向き合い、身体を感じて、時を感じて、動きに注視し、呼吸に注視し、つまり、瞑想の状態になり、リフレッシュさせる。もちろん、そうでない休みもある。

娯楽は一種の休みである。ストレス発散という形が近い。そうやって、体に溜まった毒気を出していく。物理的には見えないが、それは気として排出されていくだろう。心をスッキリさせることだろうか。体と心は密接に関係しており、心が休まれば、体も自然と休まる。体の回復は早い。逆に心が乱れている時は、体に不調が見られる。簡単なものではニキビもそうなのではないだろうか。ただの寝不足だったり、暴飲暴食だったりするかもしれないが、そもそも、それを犯してしまうということは、何か心に問題があるということだろう。

心に問題がなければ、そういうことは犯さない。そうすれば、結果的に、身体に異変が出ることもないのだ。そうでなくても、心と体の関係はある。ニキビのような形ででなくとも、例えば、関節が痛むだとかも心の問題によって起きる可能性は十分あるのだ。

逆に、体から心にくることもあるだろう。環境によってだ。寒いとどうしても体が冷え、筋肉が固まり、うまく動けず、血流の流れも悪くなり、脳への供給も減り、考えがおぼつかず、心を病んでいく。

死ねばどちらもなくなるのだが。魂はどうだろうか。そういう非科学的なことはいくら考えても答えは出ないわけだが。なので、今の科学で実証できることしか信じることはできないのだが、それはそれで、枠に囚われた人間のようで何だか嫌な気分だ。

死ぬまで成長で、でも、時には休むことが必要で、急いでいるのに一時停止もしなくてはならないというなんと矛盾した状況。混沌、つまり、カオスであり、これが焦りの原因なのではないだろうかと思うわけだ。焦っては仕方ないとは言うけれど、次の電車を待つか、駆け込み乗車をするか、そういう瀬戸際だったりするわけだ。目的地に着くためにどれだけの責任を伴うかでその辺りも変わってくる。前もって準備すれば、それだけ、余裕ができ、駆け込み乗車などしなくてもいいわけだ。しかし、人生の死が乗車だとしたら、準備とは何なのだろうかと。乗車が死ではないか。いや、でも結局は目的地がゴールであって、それが死に同類するものであっても、電車に乗れるかどうかが全てであろう。

抽象的な話になり、これを具体的にまた書き直す時間はないので、今日も10分お疲れ様でしたと、そう言いたい。

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