死について考える【64日目】
人間、限界を超えることはできるのか。
おそらくできるだろう。しかし、超えたところでそれはキャパシティオーバーなわけで、身の丈にあっていないというやつで、体の合致しなかった部分が壊れていくのだ。
それは筋肉にしても、脳にしても。
人にはそれぞれの体にあった身体というのがある。日本人がアメリカ人のように筋トレをしても、それで筋肉を付けたとしても、関節が追いつかない。骨が追いつかない。そういう鍛えられない根底にある部分から破綻していく。
心だってそうだ。どんなに多くの情報を取り入れようとも、そして、それを完全に記憶しようとしても、それによって心が蝕まれることだってあるのだ。ふだんは忘れられるはずなのに。
身の丈に合わせてというのはどの世界でもたいせつであろう。
ファッションもそうだ。結局、どんなに高い服を買い、着ようとも、その人に合っていなければ宝の持ち腐れというやつだ。豚に真珠でも良いだろう、最悪。
それを知れるのは、結局、体験であり、経験であると。知識だけでもある程度は補完できるだろうが、そこにも限界はある。いくら本を読んで将棋を覚えようとも、対戦で勝てないのと同じであろう。実戦でしかわからないことがあるのだ。そういった長いようで短い、つまり、遠回りの道を歩むことは実は最短距離なのである。
死ぬまでに、どういった経験をするかというのは非常に重要だ。それは無駄なことでも、ある意味良いのだ。もちろん、自分から無駄なことにツッコむ必要はなく、ツッコむべきは挑戦である。挑戦した結果、無駄だったと知るのが経験なのだ。挑戦せずに無駄だったと知るのは経験でもあり、それこそただの無駄遣いだったりする。挑戦の先にある失敗は無駄遣いとは言わないだろう。つまり、挑戦せずにいるのは最初から無駄遣いをしているに等しい。
その無駄をなくすことこそ、合理的であるが、合理的すぎてもまた問題ではなかろうかと感じる。その無駄遣いに気づけないからだ。無駄だと気づけないのならば、それは無駄だと自覚できず、何度も繰り返してしまう。
私は今、無駄遣いを繰り返している。何度も同じ失敗を繰り返すのはよくない。それは反省できていないということだ。繰り返し行わないためには、気づく必要がある。つまり、今までそれに気づいていなかったようだ。いや、気づいていたであろうが、それを繰り返さないように対策はしなかった。そういう省みることを怠った結果が今なのだ。
猛省、反省、挑戦、経験、言葉にするのは簡単だ。行動、やっていこう、これからは、少しずつ、言葉にするのは簡単なのだ。
でもできないでいる。言葉だけで終わらせている。言霊がこもっていない。それを宣言していない。そういう自分の中で完結させていて、外に発散しない。これが原因なのかもしれない。
そして、これを調べていこうというのがいつもの定型文だ。調べると言って、調べない。こうやってネガティブな思考を持ち、自分を追い込んでいく。自己肯定感が低い。
自己肯定感を高めるように思考を変えねばならない。ポジティブな発言を増やさなくてはならない。
死について真剣に、もっと真剣に考えろ。