司馬遼太郎「坂の上の雲 4巻」読書感想文
日本の連合艦隊は、ロシア艦隊を追いかけている。
“ 黄海 ” でのことだった。
これほど滑稽な追跡戦はなかった。
小艦隊のほうが追いかけて、大艦隊のほうが逃げている。
のちに “ 黄海海戦 ” と呼ばれる戦いがはじまっていた。
追う側は悲愴である。
夜になるまでに追いつかなければ、所在がわからなくなる。
が、追いつくのは絶望にちかい距離があった。
一方、逃げる側は勝利に向かっている。
ウラジオストックに向かっているのだった。
どういうことなのか?
なんで逃げているのか?
ひとつには、ロシア軍の官僚化が大元にある。
陸軍と海軍の協調がとれてなかったのだ。
旅順には、陸上から日本軍の攻撃が開始されていた。
すると「海軍も出撃して連合艦隊と決戦をすべき」と陸軍が主張。
ロシア皇帝は「旅順港を脱出してウラジオストックにいけ!」と艦隊に命令を下したのだった。
でもなんで、ウラジオストックなのか?
なんで、決戦ではなくて脱出なのか?
※ 筆者註 ・・・ 読書録は抜書きばかりになってます。どうやら、共感が多すぎると抜書きも多くなるようです。感想文ではなく要約となってます。『5分で読める坂の上の雲 第4巻』という様相になってます。せめて地図だけは作成してみました。
ロシア旅順艦隊
日本軍の熱さに、取り乱してしまった。
順を追って書かなければだった。
まず、乃木希典(まれすけ)を司令官として第3軍が編成されて遼東半島に上陸。
遼東半島の突端にある、旅順を攻略するためだった。
旅順攻略は、連合艦隊からの要請だった。
その旅順港には、ロシア艦隊がいた。
もし、このロシア艦隊が自由に海上に出れば致命傷になる。
海上補給を絶たれて、満州の陸軍は孤立してしまう。
そのため連合艦隊は、戦闘準備して黄海に留まっている。
が、ロシア艦隊は海洋には出てこない。
温存策だ。
本国のバルチック艦隊が援軍にくるのを待ってるのだ。
最強といわれるバルチック艦隊が到着すれば、すぐさま合流して、連合艦隊よりも倍の戦力となってから決戦をする作戦だ。
もちろん日本軍も、その作戦はわかっている。
そうなれば、小勢の連合艦隊などは殲滅される。
早いところ、旅順艦隊だけでも打撃を与えておきたい。
しかし旅順港は、簡単には攻めれない。
陸上の大要塞からは、多くの大砲が海上へ向けられている。
戦艦で攻めたものなら、たちまちに集中砲火を浴びて沈められてしまうのは必至だった。
黄海海戦がはじまった
明治37年8月8日。
意外なことがおきた。
ロシア艦隊は、出港してきたのだ。
連合艦隊は、敵の動きをすぐに察知。
12時30分、ロシア艦隊を発見。
18隻だ。
ロシア艦隊のほうが戦艦が多い。
装備も新式だ。
参謀の秋山真之は、勝利を確信できないまま、敵艦隊の煙を望見していた。
連合艦隊の司令長官の東郷平八郎以下、敵は決戦するために出撃してきたと信じて疑ってない。
まさか、ウラジオストックまで逃げるつもりで、全速前進しているとは、1人として予想もしてない。
ロシア艦隊の司令長官のウィトゲストは、軍人というより官僚であった。
彼の官僚感覚では、皇帝の命令を字義のとおりに解釈するほうが無難で、ウラジオストックまでいき艦隊を保全することで勲章を得ようとしていた。
連合艦隊の出現にも、戦わずに逃げることしか考えてない。
最初の砲戦では、お互いにもつれたり離れたりするのに、大半の時間が費やされた。
例えれば、東郷という剣客が大上段から振りかぶって突進して一太刀だけふるって北へ去ると、敵はそのままさっさと試合を捨てて南へ逃げたようなものである。
連合艦隊が、くるりくるりと全艦が回転している間に、ロシア艦隊は逃げに逃げたのであった。
で、必死になって追跡していたのである。
日本の勝因
運が日本側に味方した。
ロシア側の戦艦に故障がおきた。
置いていくわけにもいかず、艦隊の速度が落とされた。
2回目の砲戦がはじまった。
1時間30分を超えたころ、運命の1弾が放たれた。
日本側から放たれた。
それが、司令長官のウィトゲストが乗る旗艦に命中した。
幕僚も、艦長も、航海長も、すべて吹き飛ばされた。
操舵員も破片を受けて、舵にもたれたまま絶命。
旗艦は、死人の手で左へ左へと回頭をはじめた。
後続する艦船に、混乱が広がった。
ロシア艦隊はバラバラになる。
戦後に東郷は、こう語っている。
ロシア軍人は強兵であった。
それでも日本に敗れた因は、観念のちがいにあるらしい。
ロシア人は、戦争をするのは、陸軍だったら軍隊、海軍なら軍艦がするものだと思っている。
このため軍艦が敗れると、もはや軍人としても務めは終わったと、それ以上の奮闘をする者は、極めてまれな例外をのぞいていない。
日本人は、軍隊が敗れて、軍艦が破損しても、一兵にいたるまで、呼吸のあるうちは闘うという心を持っていた。
勝敗は、双方の観念の差からわかれたものらしい。
たしかにそうであった。
ロシアの軍艦はひとつも沈んでないのに、自ら敗北の姿勢をとり、バラバラになって必死で逃げた。
連合艦隊は、それぞれを追いかけて砲撃しているうちに、日が暮れてしまった。
当時の軍艦は、暗くなると砲撃もできなくなるし、所在もつかめなくなる。
結局は、目的のウラジオストックまで逃げた艦はない。
遠くカラフトまで航行したのが一艦ある。
中立国のフランス領のサイゴンまで逃げたのが一艦。
同じく中立国のドイツ租借地の膠州に一艦。
同じく清国の上海に一艦。
これらの戦艦は武装解除をうけて戦後まで抑留された。
ほとんどの戦艦は、旅順港に戻った。
連合艦隊は、旅順港付近に再び留まらなければならない。
敗北ではないが、作戦は失敗だった。
日本の「勝ち」とロシアの「勝ち」が異なっていた
上陸した陸軍である。
満州に進んでいる。
弾薬量の計算も不確かで、常に不足に悩まされた。
補給のための輸送方法も確立させてない。
ロシア軍に比べて、大砲の性能が粗悪であることもわかった。
その上、砲弾には不発弾が多かった。
それでもロシア軍に勝ちえて北上できた原因は、むしろロシア軍のほうにあった。
ロシア軍は、戦術的に退却をする。
が、それを日本軍は「勝った!」と勢いづく。
ロシア軍は “ 線 ” から “ 面 ” の戦術になる。
点と点を繋いだ “ 線 ” を構築して防御して、線で囲った “ 面 ” を確保していく。
面を確保してからは、そこに兵団を進めて占領することで、はじめて「勝った!」となる。
が、日本軍は “ 点 ” だけを確保して「勝った!」となる。
いや、確保なんてものではない。
そこが敵地であったなら、突撃して1歩踏み入れただけで「勝った!」となる。
さらに勢いづく。
戦闘というものは、敵よりも倍以上の兵力を集結して圧倒して撃滅するというのが、古今東西を通じて常勝将軍といわれる者が確立して、実行してきた鉄則である。
ロシア軍の戦術は、その鉄則に沿っている。
1万の敵兵だとすれば、2万の兵を集結させる。
言い換えれば “ まとも ” である。
が、日本軍は、1万の敵兵でも100人の部隊で進撃する。
それが勇ましいと信じている。
とても “ まとも ” ではない。
ロシア軍は戦術的退却をすることになるが、防御線を構築している間がない。
日本軍が、狂ったように前進してくる。
その勢いだけで、日本軍は上陸地点から約200キロ先の沙河まで進んでしまう様子が、4巻では書かれている。
日本人の戦術
繰り返しになるけど、退却するロシア軍は、常識的な戦術に沿っている。
決して臆病だから退却しているのではないし、負けたとは全く思ってない。
強大強力な軍隊であることも変わらない。
当然にして日本軍に取られた “ 点 ” は、大軍で取り返す。
少数の日本兵は、あっけなく全滅する。
すると日本兵は、また身ひとつで乗り込んでくる。
“ 夜襲 ” もしてくる。
ロシア兵が経験したことのない戦いだった。
接近戦は、日本兵のほうが断然強かった。
銃剣や軍刀での戦いだ。
ロシア兵の死傷者の多くが、刀剣によるものだった。
ロシア軍将校や外国からの観戦武官は、当初は日本兵の戦いぶりは “ 野蛮 ” だと評していた。
それが次第に、薄気味わるさを込めて “ 狂暴 ” と評するようになっていく。
ついでながら、日本兵は小銃の射撃が下手であった。
日清戦争でも、最弱といわれた清国兵よりも射撃が劣る状況があった。
日露戦争でも、各国の観戦武官が等しく認めていたのが、日本兵の射撃のまずさであった。
射撃というのは、神経が鈍い人間のほうが向いている。
落ち着いて銃を構えて、引き金を絞らないと弾は当たらない。
日本人一般が、射撃の能力が低いとされるのは、神経が過敏だからで、要するに、戦うことにカッとなる性質だからであろう、と司馬遼太郎は書いている。
・・・ 現代の読者からすれば、どうも “ まとも ” なのはロシア軍のほうの気がしてならない。
でも、日本人のDNAは感じる。
“ 狂暴 ” だからなんなんだ、という気持ちの読書になっている。
遼陽会戦
日本軍は、朝から晩まで攻める。
夜襲もする。
ロシア軍の常識からすれば、よほどの予備軍が後方に控えていて、入れ替わり攻めてくるのだと観測していた。
が、日本兵は休むことなく攻めているだけだった。
この体力にも、外国からの観戦武官は驚いている。
これは戦後になってから、両方の記録を付け合せて判明したことになるが、ロシア軍は敵を過大にみる癖があった。
北上してくる日本軍の兵力を数倍大きく見ていた。
逆に日本軍は、敵を過小にみる癖があった。
それらの要因が、妙な組み合わさりかたをして、日本軍は相手が大軍であっても進撃を続けて、上陸地点から北に200キロほど押している。
遼陽まで退却したロシア軍は、23万の兵力を集結。
対する日本軍は14万でしかない。
が、この会戦でもロシア軍は退却をはじめたのだ。
本来だったら、ロシア軍が絶対優勢の兵力をもって大進攻をやれば、日本軍の運命はどうなっていたのかはわからない。
またロシア軍は、相手を過大に見ていたのだった。
逆に日本軍は、相手を過小に見ている。
日露戦争のパターンでもある。
狂気の日本軍
黒木為楨(ためとも)が率いる第1軍などは、4倍の兵力があるロシア軍主力に向かって銃剣突撃を敢行している。
会戦というは、ほぼ予定された戦場で、両軍の兵員と火器が集中して、ほぼ想像つく期日で大衝突するのである。
日本人が、はじめて経験した会戦となる。
敵味方合わせて800門の大砲が一斉に砲撃した。
その中での突撃である。
ロシア主力軍の陣地では、敵味方が入り乱れての銃剣での接近戦となる。
こういった接近戦だけは、日本兵のほうが強い。
これにより、ロシア全軍が退却をはじめた。
しかも、この第1軍は、この戦いの前に渡河作戦を行って成功させている。
2万の兵が、目前の敵に気がつかれないように、夜間の河を越えたのである。
同行していたドイツの観戦武官は、今までに聞いたことがないと、20%以下の成功率としていた渡河作戦だった。
彼は終戦後にドイツに帰国してから、この渡河作戦について1冊の本を書き上げるほどの衝撃を受けた。
ともかく、第1軍の奮闘によって、ロシア軍は60キロ後方の奉天まで退却。
9月7日。
日本軍総司令部は遼陽に入った。
この遼陽会戦での死傷者はどうだったのか?
日本軍は約2万人。
ロシア軍もほど同数で、わずかに上回る。
クロパトキンの思惑
満州ロシア軍の総司令官のクロパトキンは、留まっていた奉天から反転攻勢に出た。
遼陽まで進んだ日本軍が、急に静かになったからだった。
おそらく、日本軍は補給に悩んでいる。
実際に、その通りだった。
日本軍は、本国から細々と送られてくる銃弾や砲弾をじっとして貯め込んでいく作戦をとったのだ。
これが作戦という名に価するのかは疑問であるが、それを重点にしなければならないほど、日本にはこれほどの戦争を遂行する国力がなかった。
早く敵の主力を殲滅して、少しでも優勢のまま講和に持っていかなければ、財政が破綻してしまう。
本当は、クロパトキンとしては、もっと後方のハルピンまで退却して、そこで全ロシア軍200万のうち100万を集結させて、攻勢に転ずるつもりだった。
ロシアにとっては、王道の作戦である。
退却して敵の補給路を伸ばして、そこに冬の嵐をぶつけることでナポレオンも破っているし、後にソ連となってからもヒトラーも破っている。
この作戦を実行されたら、日本軍には100に1つの勝ち目もなかった。
ではなぜ、このとき反転攻勢に出たのか?
ロシア宮廷の政治である。
作戦としての退却であっても、宮廷では評判がわるくなってしまい、1人で指揮するのは重すぎるという意見も出た。
ロシア皇帝は、満州ロシア軍を1軍と2軍に割ることを決めたのである。
この内示が本国から流れてきたときに、クロパトキンは「総司令官であるうちに形をつけてしまわなくては・・・」と思っての反転攻勢だった。
沙河会戦
10月8日。
遼陽の日本軍総司令部に「ロシア軍、大挙南下行動を開始」との急報が入った。
総参謀長の児玉源太郎は、守るのではなくて、迎え撃つ作戦を採る。
のちに “ 沙河会戦 ” と呼ばれる戦いがはじまった。
命令とともに、横に張った隊列は70キロに及んでいる。
山地も多い、やや複雑な地形でもある。
横一列の大横隊を組みつつ、さらにそのまま足並みを揃えて進撃するのだ
そんな作戦が果たして可能であるのか?
「そんな曲芸みたいなことができるか!」と参謀同士でも意見が割れた。
結果としては、ほぼうまくいったのだった。
70キロ以上の大横隊のまま、応戦しながら10キロ進撃したのだ。
日本軍にとって、わずかに幸いなのは、今までのように陣地にこもる敵に突撃をしなくてよいことだった。
進んでくる敵を撃つのである。
とはいっても敵の兵力が大きすぎる。
約2倍である。
戦闘開始から5日がたった。
この5日目の日本軍の総前進は、すさまじいものがあった。
夜になっても前進は続く。
翌日の朝になっても、不眠の兵は前進を続けた。
ロシア軍は、退却をはじめた。
また敵の兵力を過大に見たのだった。
ここで日本軍は、猛攻を加えていれば壊滅的打撃を与えたのだったが、すでに砲弾が尽きていた。
戦闘は小規模に続いて、さらに5日を経て終わりを見せた。
日本軍の死傷者は20497名。
ロシア軍は6万人以上にのぼった。
が、大きく見て、日本軍が不利なのは変わりがなかった。
敵は手傷を負いつつ数歩下がっただけに過ぎない。
沙河の向こう側まで退却したロシア軍は、防御陣地を構築しはじめている。
満州では、11月には冬となる。
両軍は沙河を挟んで対峙したまま、冬を越す準備にとりかかった。
旅順要塞への攻撃
旅順要塞への攻撃は続いている。
乃木希典を司令官とした第3軍だ。
作戦当初からの死傷者は、すでに2万数千人となっている。
正面からの攻撃に固執しているのが敗因だった。
10月15日。
ついにバルチック艦隊が、バルト海のリバウ港を出港した。
軍艦35隻の大艦隊だ。
地球をグルッと回って日本に来るのだ。
早くしなければならない。
バルチック艦隊が来たらおしまいだ。
なんとかそれまでに、旅順要塞をおとして、港内の艦隊を全滅させなければならない。
11月26日。
第3次総攻撃が開始された。
3100名の決死隊が編成されて、銃剣突撃が敢行された。
最も防御力が集中している正面を、今までと同様に攻めるのである。
作戦の成否のすべてを、志願者の勇敢さのみ頼っているという作戦だった。
結果は無残だった。
近代的な巨大要塞は、人力ではどうすることもできない。
突撃開始から1時間で、3100名の半数が要塞の前の鉄条網で血煙となって倒れた。
決死隊は壊滅も同然だった。
それでも生き残った兵士は鉄条網を切り前進。
敵の塹壕に飛び込んでロシア兵を斬った。
ある者は要塞をよじ登り、頂点に立つと、後続の者を全身を使って鼓舞したあとに撃たれて落下していった。
作戦は、また失敗に終わった。
幸いなのは、戦死した兵士たちは、旅順陥落を信じていたことだった。
満州における日本軍の安危は、旅順の乃木がにぎっているような形勢となってきていた。