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坂井三郎「大空のサムライ」読書感想文

たしか、ボストンコンサルティングの堀鉱一か、幻冬舎の見城徹かのどちらかが著書のなかで推薦していた本。

ゼロ戦乗りの体験記。
昭和のベストセラーだという。

年末に購入して、さっそく読んでみたが、どうもしっくりこなくて30ページも読まずに挫折した。
好きそうな内容なのに。
どうして読めないのか不思議だった。


再読したきっかけ

買い物にいくために自転車に乗って、川原沿いなど走り、夏の青空を見たら「あ、なんか読みたいな」と思ったから読んでみた。

今度は一気に上下巻読めた。
冬の寒い中では読めない本もある、季節で面白さが変わる本もある、というのをはじめて知った読書だった。

読感

すいすい読める。
一種の冒険談みたいなもので、痛快というのか。
戦争の悲惨さはさほどない。
いや、上巻にはない。
下巻になると、悲惨さが滲みでてくる。

はっきりとした悲惨さがないのは、坂井三郎も書いているけど、空中戦というのは生身の人間が見えない。
機械を介した戦い。
お互いに死は覚悟の上だし、撃ち落してもアメリカ兵はパラシュートで脱出するし、戦死者を目の当たりにするのは稀。
あるのは、戦友が墜ちていく悔しさ、寂しさ。

さほど戦争の悲惨さを書いてない。
戦争はダメ、戦争はいけない、とかも一言もない。
どうして戦争が起きたのか解説をするわけでもない。
反省などないし、かといって正当化もないし、美化するわけでもない。
1人の兵士としてどう戦ったのか、いかに最前線で戦ったのか、それのみを書いている。
「大空のサムライ」とはぴったりの題名だった。

大陸が目に浮かぶ

大陸を感じさせるのが記憶に残る。
中国の上空を飛んで地上を見ていると、ある村の外れで戦闘が起きている。
しかし、村人たちは銃声を聞いても逃げようともしない。
のんびりと畑仕事をしている。
戦争というか、ずっと騒乱が絶えない中国の人々は、もう銃声くらいは慣れてしまっているのだ。

同じようなことが、開高健の「ベトナム戦記 」にも書かれているのを思い出した。
ベトナムのデルタ地帯では農民は貧しい。
農作物はふんだんに収穫できるが、歴代の権力者からものすごい収奪にも遭っているのだ。
そんなデルタ地帯に、水牛にまたがる農夫がいる
水田の端では戦闘が起きているのに、農夫は逃げようともしないで、のんびりと作業を続けている。
「これこそが大陸だ」と書いたのは坂井三郎のほうだけど、自分もまったく同じことを感じた。

坂井三郎について

読んだのは去年の夏。
それから、新聞の記事で坂井三郎の名前を見つけた。
昭和に社会問題となったネズミ講事件の「天下一家の会」の広告塔になっていたという。

気になって検索してみたウィキペディアでは、広告塔どころか元ゼロ戦乗りも勧誘して反感を買い、そのほかの言動でも批判もされて、ゴーストライター疑惑もあったりして、当時は悪い評判もあったとある。

あああ・・・。
これは知りたくなかった。
知りたくなかったよ。
三郎さんよぉ。

でも、この本の推薦者、・・・堀鉱一か見城徹のどちらか、・・・推薦者は、そういった悪い評判も知っていながらの推薦だろうと考えると、残念がっている自分が安直にも感じた。

戦争が終わってからの人生のほうが長かったのだ。
2000年に84歳で死去しているのだ。
生きていればいろいろある。

なんのかんのいっても、こういう本が好きだった

ちょっとした嬉しさもあった。
ウィキペディアによると、年寄りになった坂井三郎は「戦闘機よりも見晴らしがいい」という理由で初代ロードスターを好んだという。

実は、この本を読み終えたあとの自分も、夏の自転車を全力で漕ぎながら、どどどどどどっと機関銃の音など口ずさんで、オープンカーに乗りたいな・・・と、だったらロードスターがいいな・・・と思ったのだった。

アメリカ人の不思議さを感じた

不思議でもある。
「大空のサムライ」は海外でも出版されている。
それでアメリカに招かれたり、多くのアメリカ人と交流を持っているところが不思議。
アメリカ人の不思議。

真珠湾攻撃総隊長の回想 - 淵田美津雄自叙伝」を読んだときにも感じたけど、総隊長だった淵田美津雄は戦後にアメリカに招かれて講演を幾度もしている。
総隊長というのは、いってみれば現場の責任者で、実際に真珠湾上空で爆弾投下を指揮している。
淵田美津雄がキリスト教徒になったというのもあるけど、日本だったら考えられない感覚。

そうではないのか。
広島に原爆を落とした総隊長が仮に仏教徒になったからといって、招いて交流したり講演したりは日本ではあり得ない。
まあ、やったことの意味も規模もちがうけど。

が、殺人事件の被害者の近親者が、加害者と割合と憎しみのない手紙のやりとりをしてたり、加害者の家族と敵意がない交流を持ったりするのもアメリカでは不思議ではないともニュースで見たこともある。

たぶん「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とか「隣人を許しなさい」だとかなんとかだというキリスト教の教えからきてるとは理解できる。
それがいいとは思わないし、キリストなどあまり好きではないけど、いかに日本人がねちねちとしているのかだけは改めて知った気がした。

上下巻のあらすじ

中国戦線へ

学校の成績がわるかった坂井は、農作業を手伝いながら空を見上げていた。
どうしても飛行機に乗りたい。
その想いが止まらない。

試験を受けて、検査を受けた。
幸運もあったし、ぎりぎりでもあったが、なんとか飛行学校へ入学するとことができたのだった。
まだ太平洋戦争がはじまる前のこと。

初陣は中国の戦線。
中国軍は弱くて、敵なしといったように空を飛びまくる。
飛んでも飛んでも陸地が広がる。
とてつもなく広い大陸だった。

ゼロ戦も投入された。
最新の戦闘機だった。

太平洋戦争の勃発してからは南洋へ

太平洋戦争が勃発すると、ゼロ戦部隊は台湾の基地へ。
今度は海の上を飛びまくる。
不可能といわれた長距離飛行をゼロ戦部隊はやってのけて、南方の島へ進出した。

フィリピンを越えた。
インドネシアも抜かした。

急速に戦線は拡大した。
急速すぎて、あるときには日本軍が制圧した空港に、アメリカ軍の輸送機が着陸しようとして「あれ!占領されている!」とばかりに慌てて飛び立っていくドタバタもある。

パプアニューギニアの先端のポートモレスビーの手前までゼロ戦部隊は進出する。
山脈の向こうのポートモレスビーを攻略すれば、そこからちょっと飛べば、もうオーストラリアである。

イギリス軍は追い詰められた格好。
今までにない抵抗をしてくる。
新たにアメリカ軍の戦闘機が加わりもして、山脈を挟んで戦闘が続いた。

ポートモレスビーの戦い

進むところ敵なし・・・という日本軍のゼロ戦部隊の流れが変ったのはこのあたりから。
出撃すると、1機、また1機と撃ち落されて、・・・いや、食われていく。

もちろん、こっちだってそれ以上に敵機を食っている。
技量ではゼロ戦乗りのほうが上だ。
戦法もゼロ戦乗りのほうが上だ。

が、数がちがう。
次から次へと、敵機は出撃してくる。
それまでは、ゼロ戦の姿を目にするだけで逃げ回っていた敵機ばかりだったが、向かってくるヤツも現れてきた。
前から後ろから、上から下から、集団で攻撃してくる。
いくら食ってもキリがないという状態。

肉親愛よりも深い情愛があった

あるとき、部下のゼロ戦が帰還しない。
いつも一緒だった部下だったが、その日は別の隊に請われて出撃させたのだった。
作戦は完了したが、いくら待っても部下の機は帰還しない。

食われた・・・のだ。

部下といえども戦友というのは、友情や肉親愛とはちがう、それ以上の情愛がある。
「俺がついていれば・・・」と、坂井は涙する。

ガダルカナルの空中戦でやられる

ついに、ポートモレスビー攻略を断念するときもきた。
くどいけど、敵は数がちがう。
次から次へと敵機は集結して、大勢で出撃してくる。
こちらは数が減ったら減ったで、そのままで迎え撃つだけだから防ぎきれない。
歴戦のゼロ戦乗りも、だいぶこの上空で散っていた。

ついに坂井は、ガダルカナルの空中戦でやられる。
目と足と頭から流血した。
死の誘惑と戦いながら、ラバウルの基地に生還する。

目の怪我は、ゼロ戦乗りとしては致命傷だった。
今まで生き残ってきたのは、視力がよくて、先に敵を見つけていたというのが大きい。
それでも坂井は戦うつもりだったが、強制的に本土に帰されたのだった。

目の手術は麻酔なし。
眼球に、麻酔なしでメスが入るのだ。

硫黄島での空中戦

手術のあとの坂井は、戦線への復帰を望んだが、飛行学校の教官を任じられる。

終戦前ほどになって、坂井の望みは叶う。
ゼロ戦乗りとして硫黄島に出撃したのだった。
しかし、空中での戦いも、もはや勝負にならなかった。
1機に対して15機で攻撃され、逃げ回ることで生き残れただけだった。
退却命令で本土に戻る。
ほどなくして終戦を迎えたのだった。

空戦回数は200回以上。
64機撃墜という記録が残った。
アメリカにはエース、・・・撃墜王として知られていた。

ラスト3ページほど

その経験を本にしたのは昭和28年。
あとがきには「怠けようとする心、妥協しようとする心、人をうらやむ心、言い換えれば、敵と闘うことよりも己に勝つことのほうがずっと苦しいのを知った」とある。

「人は多くの性能を残して死んでしまう。それでは生命力がもったいないと思う。これからの私は、自分の力を最大限に燃やし続けてきたいと思う。また、そうすることを、みなさんにもおすすめする。」と終わっている。

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