大下英治『小説 佐川疑獄』読書感想文
描かれていくのは、東京佐川急便事件。
一言でいえば、佐川マネーが政界にバラ撒かられた事件。
それ以上は、実はよく知らない。
バブルが崩壊するのと同時に、リクルート事件、イトマン事件などの大型経済事件があって、そのうちの1つに東京佐川急便事件があって、いずれも政治家が絡んでいるという薄い理解があるだけ。
少し整理すると。
1992年2月、東京佐川急便社長の渡辺広康は、特別背任容疑で東京地検特捜部に逮捕される。
これが、東京佐川急便事件。
そして渡辺の供述により、多くの政治家への闇献金も発覚。
国会に真相究明の場がもたれて、これが『佐川疑獄』と呼ばれる。
“ 疑獄 ” とは、本来は証拠が乏しい事件の裁判をいう。
そこから転じて、政治家が絡む贈収賄事件を指すとのこと。
それと、誤解のないように念を押したい。
当時の “ 東京佐川急便 ” と、現在の “ 佐川急便東京支社 ” は、なにもかも異なる。
トラックにあったシンボルマークの “ 飛脚 ” も、いつの間にかなくなっている。
個人的には、佐川急便には爽やかなイメージしかないのも最初に付け加えておきたい。
大下英治の本は、これで2冊目。
1冊目は、ずっと前に読んだ『犯罪の女』というドキュメントタッチの本。
すべての犯罪には女性が影響を与えている、というテーマだったような。
『犯罪の影に女あり』という一文だけが、頭にこびりつくようにして覚えている。
で、この本の題名には “ 小説 ” とあるけど、どうもそれっぽくはない。
大下英治は、週間文春の記者だったとあるから、小説家というよりルポライターというのかも。
いかに小説というのが、作者によって予定調和が盛り込まれて創作されていて、ある程度は話がまとめられているのかを感じた。
というのは、けっこう読みづらい。
30名、いや50名は次から次へと登場してきて、ころころと場面も入れ替わる。
もう誰が誰だったか、少し読むとこんがらがってきて、ページをめくる手が止まってしまう。
でも、事実は小説より奇なりという。
複雑さをそのまま描いた読みづらさが、事実に近いのだろうなと伝わってはくる。
あえて人物を5名に絞って、ネタバレとしてまとめてみた。
佐川清と“飛脚業”の出会い
発端となる人物は、やはり佐川清。
佐川急便創業者、1922年生まれ、新潟出身。
身長は155cmと小柄。
子供のころのケンカが原因で片耳が聞こえなくて、話すときは前のめりになる。
8歳のときに生母を亡くす。
15歳で家を飛び出したのは、継母への反発。
新潟から大阪行きの鈍行列車に乗り、何気なく途中下車した京都駅で法被を着た “ 飛脚業 ” を名乗る男と出会う。
当時、1937年(昭和12年)の小口の荷物というのは、駅から駅までの配達が通常。
荷物を送るのも、受け取るのも、駅にいかなければだった。
それを “ 飛脚業 ” は、荷主から荷物を預かると相手まで直接届ける。
佐川清は、その男の会社で働くが、これが後の佐川急便の原型になるのは想像に難くない。
やがて、徴兵のため新潟の実家に戻る。
徴兵検査は、方耳が聞こえないため不合格。
輸送船の船員となって、新潟と朝鮮を往復する。
そして、ある晩に酒を飲みすぎる。
翌朝の出航に乗り遅れるが、その船は間もなく撃沈されて九死に一生を得るというダメッぷりが披露されている。
終戦後は結婚して、とび職を家業とする栗和田家の婿養子に。
が、以前からの交際相手があきらめられずに、彼女と一緒に新潟を飛び出してまた京都へ。
飛び出してばかりの佐川清だ。
で、残された妻のお腹には子供がいた。
栗和田栄一という。
謎が多い経歴
|日雇い人夫の親方として全国を転々とする
20代から30代前半の佐川清の経歴は、不明な部分が多い。
日雇い人夫を集めた “ 佐川組 ” の親方として、東京近郊、福島、佐渡、鹿児島の工事現場を転々としていたとは判明している。
各地の方言が入り混じった話し方をしていたのは、その名残かもしれない。
そのころ、人夫が寝泊りする “ 飯場 ” に、浮浪者同然の女性を入れ込んで売春させピンハネして、創業の原資を稼いだ。
つくり話かもしれないが佐川清だったらありえると、後の佐川急便の幹部から聞き取られている。
とにかく、佐川清は35歳で創業した。
1957年(昭和32年)の京都で。
3人目の子供ができて定住を決めたから、らしい。
運送業とはいっても、最初はトラック便ではない。
少年のときに知った “ 飛脚業 ” をはじめた。
当時の運送業大手の日本通運は、小口配達はやってない。
殿様商売に反感を抱く京都人に、佐川清の “ 飛脚業 ” は受け入れられた。
京都大阪間を、妻と2人で荷物を担いで、電車に乗って相手先に届けた。
250キロを担いで1日7回それを繰り返した、深夜までやった、休みなくやった、怪物的な体力、と大下英治は記す。
|創業から22年で全国長者番付13位に
ここまで、後の大企業の創業者となる素養はまったく見えない
ありふれた中卒でしかない。
ところが、この ダメな中卒の 佐川清の飛脚業は拡大していく。
あちこちのページをまとめると以下である。
1957年(昭和32年)京都で創業
1959年(昭和34年)福井、金沢に配達エリアを拡大
1962年(昭和37年)株式会社に改組
1965年(昭和40年)従業員45名に
1973年(昭和48年)年商100億円を突破
1974年(昭和49年)西日本を商域として確保、東京路線開拓
1976年(昭和51年)年商350億円を突破
1978年(昭和53年)年商1000億円を突破、佐川急便はトラック運輸業界2位に
1979年(昭和54年)佐川清は全国長者番付の13位となる
所得の内訳は、佐川急便の持株会社の “ 清和商事 ” から給料として月給8000万円。
月給額は、全国長者番付で断トツの1位となる。
ほかには関連会社の非常勤役員の給料が2400万円。
それに株式配当が利益の10%から30%。
実録モノを多く書いている大下英治は、数字、とくに金額をしっかりと逃がさずに全編で書いていく。
ここが文芸作品と大きく異なっていておもしろい。
巻末に挙げられている参考文献を数えてみると、27冊ある。
また、文中にも情報の出所も資料も紹介されているので、数字には信頼感がある。
佐川急便が拡大した手法
|ひとつには強引な乗っ取り
それにしても、ここまで佐川急便が拡大したのはなぜか?
経済成長期と重なったのはあるだろうけど、なぜ、佐川清なのか?
どのような手法だったのか?
ひとつには乗っ取りがあった。
買収というスマートな方法ではなく、普通に乗っ取り。
大下英治がそう記している。
それによると、各地に進出するということは、地元業者から荷物を奪うことになる。
そこで与しやすい相手には「荷物を回すから」と、佐川急便の看板をあげさせて提携する。
頃合をみて、何千個もの荷物を急に止めて、グッチャグッチャに経営を混乱させて、どさくさまぎれに株式を取得して、役員を追放して直営にする。
「話がちがう」と対抗する相手には実力行使。
その会社のドライバーを内緒で招待してドンちゃん騒ぎをした結果、役職以下106名が一斉に退職して、いつの間にか作られていた佐川急便の営業所に移ったケースも書かれている。
「佐川清だけは絶対に許せない」と裁判を続ける社長も実名で登場する。
|政治献金による便宜
ふたつ目には政治家への献金。
運送業をはじめるのには、陸運局への許認可が必要。
トラックの増車にも申請がいる。
ところが佐川急便は、おかまいなく各地に営業所を開設してトラックも増やす。
勝手な営業をやめさせようと、地元の運送業者は陸運局に詰め寄る。
すると「佐川急便は本省扱いなんで、ここではなんとも…」と職員は口ごもる。
献金が効いているのだ。
全国で、佐川急便のトラックターミナルの建設ラッシュもはじまる。
ところが佐川急便は、各都道府県内しか輸送できない “ 区域免許 ” しかない。
全国どこでも発送ができる長距離輸送の “ 路線免許 ” は取得していない。
そのため、東京佐川急便、九州佐川急便、東北佐川急便、北海道佐川急便、などと別会社にして、違反行為による行政指導の対策をしている。
もし最悪、許認可取消しになったら、1社だけに留めて全体に及ばないようにするためだったが、結局は全国展開できた。
巻末の解説では「白タク営業を国が認めたようなもの」と、ヤマト運輸の小倉昌男社長の批判が載せられている。
誰に献金したのか?
|一説には1000億といわれる献金があった
献金した政治家というのは誰なのか?
スバリ田中角栄となる。
首相となる7年前の1965年(昭和40年)に、新潟繋がりで面識を得ている。
徒手空拳で創業した佐川清を一目で気に入ったらしい。
「佐川くんは行儀はわるいが、同郷だから」と目をかけたとのこと。
佐川清は “ 挨拶料 ” として盆暮れに現金を届けた。
これにより多くのメリットを得たし、話し方も田中角栄に似てきたという。
ロッキード事件で田中角栄が失脚してからは、自民党最大派閥の会長となる金丸信を中心に献金は続いた。
佐川急便から政治家への献金は、1965年から1991年の26年間で、およそ1000億円を超えるといわれる。
|『佐川急便問題』として取り沙汰される
巨額な献金の原資はどこからきたのか?
ドライバーは猛烈に酷使された、と大下英治は記す。
給料はいい。
初任給は年齢に関係なく40万、それからは一気に昇給が続いて70万から80万に跳ね上がる。
店長クラスは100万円を超える。
3年で家が建つ、女のソープ男のサガワ、といった高給神話も生まれる。
その内実は、1人当たりの仕事量を増やすことに主眼が置かれていた。
朝6時出社。
夜11時退社。
それが平常勤務。
労働基準法は無視されているが、もちろん労働基準局の是正勧告はない。
で、運送業は正直者はバカを見るというところがある、と大下英治は続ける。
整備点検、乗車記録という安全面も遵守されてない。
過労も併せて事故が多発した。
佐川清は、ロールスロイスに愛人を乗せて、全国の営業所を回る。
そこには佐川清の写真がデカデカと掲げられていた。
統括手数料として、すべての売上、強調するけど利益ではなく売上の10%が、清和商事に “ 上納 “ されてもいた。
『佐川急便のシステムは物流機構から金を巻き上げる一大収奪機関である』などと大下英治は熱くて、ここにありきたりな正義感を振りかざされると白けるものだけど、それもなく緻密にも書かれているので納得して読めるのがいい。
で、いよいよになって動いたのは野党の議員。
『佐川急便問題』として運輸委員会で追求する。
運輸大臣は、運輸省に佐川清を呼んで口頭注意をするが、すでに平成になっていて業界2位となっていた。
渡辺広康について
東京佐川急便社長の渡辺広康が、本題の事件の中心人物となる。
ページをまたぐ経歴をまとめると以下となる。
1934年(昭和9年)新潟生まれ。
中学卒業後は、実家の田んぼと畑の手伝いをした。
1952年(昭和27年)上京。
タクシー会社に整備工として就職して、夜間高校に通うが中退している。
1964年(昭和39年)『渡辺運輸』を設立。
自己資金の小さな会社で下請けからはじめた。
やがて東京進出を図る佐川清と出会い、小口配達の全国展開という発想に驚く。
このとき、中卒のくせして「立教大学を出て三菱商事で仕事をしていた」と大嘘を言ってのけて、佐川清も信じているのがおもしろい。
1974年(昭和49年)社名を 『東京佐川急便』と変更して系列会社とする。
以降、全国展開を果たしたのも、収益を最大にしたのも、渡辺の手腕が大きい。
いいコンビの2人に見える。
創業者の佐川清が、あれこれ考えて方向を示す。
参謀、いや官僚タイプの渡辺が、施策して実行していく。
2人を比べると、佐川マネーの出し方も、うまい具合に性向が異なっている。
佐川清は、情に拠るようにして、にぎやかに金を出すのが目立つ。
芸能人のタニマチとして。
バラまくようにして金を出す。
「経世会に25億出してやった」と飲み屋で騒いで金丸信に電話する。
湾岸戦争では、日本人救出のチャーター機の費用も出す。
比叡山の仏閣に20億を出して「信長が壊したものを俺が立て直した」と公言する。
深川神社にポンと10億を出して、ダイヤモンドとルビーが散りばめられた神輿が作られる。
一方の渡辺は、静かに実利を取るように見える。
政治家や秘書へ献金は、見返りを得れるか計算するようにして金を出す。
必要があれば、政治ゴロにも暴力団にも右翼へも折衝する。
皇民党事件の謎
3分の1を過ぎたあたりで『皇民党事件』が発生する。
いわゆる “ ホメ殺し ” により、首相を目前にした竹下登は心労する。
警視庁は、誹謗中傷だったらともかく、応援している政治団体は摘発できないという。
運動を止めさせようとした金丸信は、皇民党側に30億円を提示したが「金の問題ではない」と即座に断られるといった謎も多い事件。
大下英治いわく。
竹下登のために地元対策をして死んだ者がいた。
それに対して竹下登が何もしなかった怒りが原因、としている。
暴力団と右翼にもかなりのページが割かれるが、個人的には嫌いな人たちなのでざっくりと省きたい。
ともかく相談された渡辺は、事態の収束に尽力。
首相となった竹下登と、自民党最大派閥の会長となった金丸信に強固なコネクションを持つに至る。
ここには暴力団会長の助力があった。
実業家を目指している暴力団会長で、そのゴルフ場開発の銀行融資に際して、東京佐川急便は債務保証をする。
このゴルフ場開発は成功する。
バブルがあっという間に崩壊
この本は446ページ。
半分を過ぎるころには、時代はバブルになる。
渡辺はバブルの社長を体現する。
銀座のクラブで80万の酒をポンポンあけて、大物政治家には1000万単位の金を車代として渡して、運転手にはチップを100万。
そこから愛人宅に直行。
絶頂の渡辺は『佐川急便は仕手筋』といわれるほどに株式投資もして、債務保証もバンバンといったように引き受けた。
後半の3分の1からはバブル崩壊となる。
同時に崩壊していく渡辺の苦渋の様子には、黒い心地よさがある。
周囲の登場人物一同も、なんとかしようとしてもどうにもならずに、すべて裏目に出てダダ崩れしていくのも正直いって読んでいて楽しい。
が、ここでも特異なのが佐川清。
株で儲けるのを嫌い、肉体労働の本業で稼ぐのを好んだ。
「佐川急便グループは株取引禁止」と通達もしている。
しかし、すでに東京佐川急便の金融機関からの融資と債務保証は3900億円に達していた。
すべてが焦げ付きとなっている。
粉飾決済で乗り切るが、それも行き詰まり、一気に東京佐川急便は倒産の危機に陥る。
突然の社長解任
京都の佐川清邸まで出向いた渡辺は「オヤジ、すまない」と頭を下げて、3900億円の債務を詫びる。
佐川清は責めることはなかった。
「2人で返せばいいじゃないか。2人でつくった会社じゃないか。一からやっても5年もあれば返せるだろう、お前はなにも心配するな」と渡辺の肩を抱いて2人で泣く。
ここは1ページにも満たない場面だけど、ちょっとした感動があった。
が、佐川清と渡辺の関係は、このあと急転する。
原因は、佐川清の息子。
異母兄弟となる2人の息子は、佐川急便の後継者になるべく主導権争いをする。
1人は栗和田栄一。
国鉄の職員となっていたのを渡辺が見つけてきて、佐川急便には30歳を過ぎてから入社していた。
優秀だと評判がいい。
義弟となるもう1人は出来がわるい。
変なところだけが父親に似ている、と評判もわるい。
困ったことに、出来がわるい子供ほど可愛いという佐川清の振る舞いが話をこじらせた。
こじらせた末に、出来がわるいほうに巻き込まれて、渡辺は悪者にされて疑心を抱かれる。
1991年。
渡辺は東京佐川急便の社長を突然に解任される。
多くの政治家は逃れた
渡辺にとっての不運は続く。
社長を解任された同年の1991年に、債務保証した暴力団会長が外為法違反容疑で逮捕される。
ここから佐川急便と暴力団の繋がりが明らかにされる。
債務保証は483億に達していた。
翌1992年。
渡辺は、特別背任容疑で逮捕される。
取調べには頑張っていたのだけど、やがて供述して、多くの政治家への闇献金も発覚。
『佐川疑獄』として政治問題化する。
金丸信は5億円が明らかになり、議員辞職。
竹下登は “ 言語明瞭・意味不明瞭 ” といわれる答弁で追求を逃れた。
人は顔で判断してはいけないと、つくづく思った。
人が良さそうな顔をしている竹下登の裏金モンスターぶりが、この本ではよく描かれている。
ラストの6行
ラストの6行は、逮捕直前の渡辺が、親しい社長に漏らしたという言葉で終わる。
「政治家から頼まれるんだよ。『社長、どうしても金がいる、なんとか頼む』と。最初は断っていた。が、断れなくなった。実際、汗水垂らして働いた金を湯水のように使ったって使えないものだ。だけど、どうしようもないんだ。1回出すと歯止めが効かなくなる。政治家は恐ろしい集団だよ。おれは金が遅れて政治家が催促してきたとき『馬鹿野郎!ダメじゃないか!』といって政治家を怒鳴りつけるのがとても嬉しかった。そうなると、もうだめだよ。おれはタニマチの上に “ バ ” がつくタニマチだったよ」
その後の『佐川疑獄』
巻末の解説は佐高信。
そこまで含めて、1993年7月でこの本は終わる。
その後の『佐川疑獄』はどうなったのか?
面々はどうなったのか?
気になって、ネット(主にWikipedia)で調べてみると、議員辞職したあとの金丸信は、政治資金規正法違反で罰金20万円の略式命令となっている。
ちょっと待ってくれ、といいたい。
5億の闇献金で罰金20万なのだから。
さすがに、これには世論の批判があったからか。
そうなると、世論の喝采を浴びたくてたまらない東京地検が動くようでもある。
この本が発刊された1993年8月に、金丸信は10億の脱税容疑で見事に逮捕されている。
直後の1993年12月。
田中角栄は死去している。
75歳没。
金丸信は保釈されてから「政治にはカネがいる」と無罪を主張して裁判を続ける。
が、脳梗塞で死去して公訴棄却となる。
1996年、81歳没。
竹下登は、以降も うす汚い老害 元気に政治家を続けている。
が、病気で政界を引退すると、気力が途切れたのか急激に体が弱っていったという。
2000年に死去、76歳没。
佐川清は、政治家への献金の張本人とされたが、体調不良を理由に国会の証人喚問も拒否。
会長職は退くが、大株主として影響力を振るう。
2002年に急性心不全で死去、80歳没。
渡辺広康は、2003年に最高裁で懲役7年が確定。
が、病気のため刑の執行停止となる。
翌2004年に死去、69歳没。
このときには、佐川急便の会長は栗和田栄一となっている。
佐川清を旧経営陣として、その影響力を一掃している。
2006年には、SGホールディングスが設立されて社風も一新。
シンボルマークの飛脚は外された。