「精米機抱えて梨泰院クラス ~ギャルと電気毛布と紙タバコ、人生の伏線回収劇~」
どこから話すべきか迷うけれど、まず、私がまさか精米機を抱えながら梨泰院(イテウォン)クラスにいることになった顛末から始めよう。
ここまで聞いて「え?」と思ったそこのあなた、そう、まさにその「え?」が私の人生の標準装備だ。
それはある日、ギャルの友達と遊びに行った日のことだった。
ギャルといえばヒールサンダルのイメージが強いが、私の友人ギャルは一味違う。
彼女は「ダイソーの398円サンダル」を「これが新世代のファッションだ」と言わんばかりに履きこなしている。
確かに、誰もがハイブランドを求めるこの時代、あえてダイソーサンダルで突っ走るギャルの姿には、梨泰院クラスの主人公、パク・セロイのような反骨精神がある。
いや、むしろ彼女の姿はサンダル界のパク・セロイと言えるだろう。
しかし、その日のギャル、サンダルのストラップが急に外れてしまい、見事に転倒。
「ほら、こうなるんだよ」と言いながら、私はすぐに精米機を取り出した(何故私が精米機を持っていたかは後ほど説明する)。
転倒した彼女に「精米機でお米を精米しよう」と言った私に、彼女は「精米機で怪我が治るわけじゃないから!」と冷静なツッコミ。
いや、それもそうだ。
さて、ここで精米機の話に移ろう。
実は最近、私は「減速生活」なるものにハマっていて、余計な家電や便利グッズを減らし、必要最低限の生活に戻ろうとしている。
しかし、そんな私でも精米機だけは手放せなかったのだ。
なぜなら、自分で精米したてのお米を食べる快感は、他の何物にも代えがたいからである。
これは言わば、紙タバコを吸うときの至高の一瞬に似ている。
「プハーッ」と煙が体内を駆け巡るように、精米したてのご飯の一口が口内を駆け巡るのだ。
そんな減速生活をしている私だが、唯一手放せないのが「電気毛布」だ。
秋風が肌寒くなってきたある日、精米機の横で電気毛布に包まれていたら、気付けばもう夕方。
温もりとお米の香りに包まれて、私は夢の中にいた。
目が覚めたとき、なんと目の前にはギャルがいた。
「電気毛布はあったかいけど、あんたそのままだと干物になるよ」と笑われた。
さて、本題の紙タバコだ。
最近、私は電子タバコに飽きてしまい、紙タバコに戻った。
これがもう、「至高の一服」と言わんばかりの快感である。
まるで、初めてギャルに誘われて渋谷のクラブに足を踏み入れたときのような、ドキドキ感があるのだ。
私の生活はどんどんシンプルになっているはずなのに、紙タバコの儀式だけは毎日欠かさない。
これも精米機での精米作業と同じ、私にとっては一種の瞑想だ。
紙タバコを吸いながら、私はよく梨泰院クラスの最終回を思い出す。
主人公が逆境に打ち勝つ姿は、まさに私が精米機を抱えて梨泰院の屋台で焼き鳥を頬張るシーンに重なる。
いや、ちょっと待て。
そんなシーンは実際にはないけれど、私の頭の中ではそうなっている。
自分の人生もドラマのように感じることが、紙タバコの魔力だろうか。
こうして話してきたけれど、結局のところ、私の人生は「電気毛布と精米機と紙タバコ」によって形作られているようなものだ。
ギャルの友達は今でも「サンダルはまだ大丈夫?」と聞いてくるし、私の精米機は日々、お米を精米し続けている。
減速生活と言いつつも、意外とハイテンポな日常だ。
最終的に言いたいのは、人生には思いもよらぬ伏線が張り巡らされているということ。
例えば、ギャルのサンダルの壊れた日が、私が新しい電気毛布を買った日だったり、精米機を持ち歩いていたのが偶然役に立ったり。
これが偶然か必然かはわからないけれど、少なくとも紙タバコの煙と共に消えていくような儚い時間が、私にとっての至高の瞬間なのだ。
次に梨泰院に行くときは、また精米機を持って行こうと思う。
もしかしたら、そこでもまた新しい伏線が張られているかもしれないから。
fin.