二千一夜物語22
22.文は人なり
「私は私の実人生を開示したのではない。作中人物の私は現実の私とは全く無関係だ」
とても多くの作家たちがそう弁明する。その気持ちはわかる。一個人の実人生に還元されることのない表現を私もしたい。だが、プルースト流に言えば「作家のほう」に収斂されるものは確実にあるのだ。文は人なり。プルーストは控え目に言っても変人だった。彼が『失われた時を求めて』で長大に描きだしたもの、それはまぎれもなく彼自身の姿だった。
「かくも長い時の流れが私によって一回の中断もなく生きられ、考えられ、分泌されたということ、その時の流れは私の生活でもあれば私自身でもあったこと、そればかりか私は不断にその全瞬間を自分につなぎとめておかねばならなかったこと、私はこの瞬間の目もくらむような山頂に鳥のようにとまっていたこと、自分自身と一緒に時間を持ち運ばずには動けなかったこと、およそこうしたことを悟って、私は激しい疲労を覚えた」
ふう、まるごと書き写したこっちも疲れた。こんなに長く読点だけでつながれた文章ははじめて。それもそのはず。彼が記憶し持ち運んだ時の長さは三〇年に及ぶ。その最終巻『ついに見いだされた時』を読みながら私は考えた。この男を誰に引き合わせようかと。
あてどなく書架をめぐり、ジェイン・オースチンに行き当たる。自らは生涯独身を貫きつつ、ひたすらハズバンド・ハンティング物語を書き綴った一徹者。いいいだろう。
そしてもうひとり。オースチンと同じく牧師の娘のエミリー・ブロンテ。単調きわまりない日常世界から、波瀾万丈のロマンスに跳躍した夢想家。
このふたりの生涯から抽出可能な作家の資質は第一に、抑制が想像力に火をつけるということ。そして第二に、細部へのこだわりが全体像をくっきりさせるということ。
これでプルーストのゆがんだエゴを希釈する材料を得た。ついでにジョイスも招き入れよう。悪くない思いつきだ。
ジョイスは突破者でいたかった作家。試みを達成よりずっと上に置いた。小説は人倫の社会的拡張を担うべきだという時代の要請をきっぱり拒絶し、人間精神の細部に表現の核を求めた。とことん内視にこだわった。
『ユリシーズ』には、たった一日だけのエピソードが書かれている。取るに足りない小人物たちが朝起きて夜に寝るまでの生態が。それを拡大鏡で凝視したジョイス。古代叙事詩の世界を人間の卑俗さと照応させた。
コリン・ウイルソンはそんなジョイスを『アウトサイダーズ』で俎上に載せた。コリンはまた、他の芸術分野の前衛たちの足跡もたどり、天才的な創作者たちが現実世界からの逸脱者になる臨界を論じた。はたして彼らに還り道はあったのかと。
「知的指数の高い人間は、実際に分析や統計で優れた能力を持ち、概念の操作にかけては見事な頭の回転の速さを発揮するが、彼らが優れているのは形式的な論理の分野に限られる。生活世界は論理の効き目が薄い場所で、そこにおいては彼らの創造的な能力は不安定となり、時には無価値になることもあり。モーツァルトはその創造を離れれば全く駄目な人間だったし、ヴァン・ゴッホはほとんど狂人だった」
コリンはそう言うのだ。そうかもしれない。だがもし、傑作が大きな代償なしには生み出せないものなら、それは「天は二物を与えず」という旧来の人間観にとどまる。はたして人は、突き進み、突き抜けたそのあと、もう元には戻れないのか?
『アウトサイダーズ』の最初の登場人物はバレエダンサーのニジンスキーである。私は彼の「日記」を読んだ。
「わたしは足を組んで坐るのが嫌い」
それが最初の一行。
「わたしは堅い椅子に坐るのが好き」
それが二行目。そしてその先からは狂気の奔流となる。ニジンスキーは堅い椅子に両膝を揃えて坐り、紙の上でペンを踊らせた。それは彼の家族にとって戦慄の光景だった。
「芸術家は社会の病気だ。真珠が牡蠣の病気であるのと同様だ」
フローベールはそう言った。その言葉は『アウトサイダーズ』の二番目の登場人物にぴたり当てはまる。ドストエフスキー。彼の無頼さは彼が生み出したどの悪党をも上回る。大酒飲みで博打狂い、てんかん発作と幼児レイプの衝動を抱え、借金にまみれて生涯を終えた。
彼に文才はなかった。人物描写も背景描写もおざなり。筋の運びは行き当たりばったり。長い脱線も常のことで、今ならどんな文学賞にもかすらない。でもそんな作品群が今に残った。何という奇跡だろう。
私は『罪と罰』に心をわし掴みにされた。
「僕は敢然とそれを実行しようと思った」
それがラスコリニコフの決意。書かれていたのはそれだけ。言うことと行うこととの間には大海があるのだが、想像と実行の間には薄紙一枚の隔たりしかない。
とはいえ、私はいまだに納得できない。どうして彼は自首したのだ?
最低限言えるkと、それは『罪と罰』が犯罪者たちの聖典として読まれ続けているわけではないということ。人を殺すのは悪と感じるその感情はどこから?ドストエフスキーは一作ごとに大きな問いを立て、その答えを作中で捜した。信仰とは何か?完全な無垢は存在するのか?それら人間の根源を。彼の作品を読むたび、私は自分のことを底なし井戸に投げ込まれた小石のように感じる。
そしてカレはまた自殺幇助の名人でもある。これ以上生きていても苦しいだけ。いっそ終わらせたらどうだとささやきかける。その手口でいったい何人の命を奪ったことか。彼は実にさりげなく死へのレールを敷いた。それは間違いなく現代にまで延伸している。いま、世界の多くの国で自殺は死因の第三位を占める。その理由はあきらかにドストエフスキーの示唆による。