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二千一夜物語11

11.図書館幻想 現代編
 
私がパリの国立図書館を訪ねたのは二〇〇一年の冬のことだった。世界最先端の知のアーカイブというふれこみに、遅ればせの野次馬見物のつもりだった。
 旧市街の東のはずれ、市バスの操車場跡地にそれは建てられていた。更迭とガラス製の四棟のビル。いずれもカッコ型で、その形状は開いた本を模していた。そのひとつにたどり着いた時、それまで全く見えなかったものが見えた。足元に、すぱっと切り立った崖が出現したのだ。
 四つのビルが囲い込んでいた四辺型の地面は、地中深くえぐり取られていて、そこには地下世界が層を成していた。つまり建物は地底でみんなつながっていたのだ。
 館内入口へと斜めに降下していくエスカレーターに私も乗った。ずんずん沈んでいくステップに軽い恐怖を覚えながら、断崖の景色を見回した。それはまるで蟻の生態観察槽をのぞき込むような感じだった。内部は透明ガラスで素通しになっていて、水平垂直に区切られた小間がいくつもあり、そのどこにも机と椅子とコンピューター端末機があった。
 私は人の姿をした蟻たちの様子をうかがった。通路を小走りする者がいた。小間でじっと発光画面に目をこらす者がいた。ヘッドフォンをかぶって踊っている者も。それらすべてが無音で進行していた。現代の知はこれほどまでに深く沈潜し、防御的になっていたのかと思った。
 このパリの<電子図書館>は、G8諸国が共同で立ち上げた世界図書館プロジェクトの最初の実施例だという。これに続くものがアレキサンドリアと京都に造られ、それぞれがオンラインで結ばれることになっている。
 そのプロジェクトがはたして私たちの言語文化にグーテンベルク以来の大転換をもたらすことになるのか、私は確たる見通しを持たない。正直に言えばどうでもいい。
 それよりも、時ここに到り、言語文化は完全に蚕食されてしまったという思いのほうが強い。言語の社会的役割はもう終わったのだ。いまはもう誰も言葉になど信を置かない。この先人類に必要なものは沈思黙考とテレパシーに違いない。そんな気がするが、もしかしてそれは私たちがかつて持っていた能力ではなかったろうか。
 すごすごと帰りの便に乗り込んだ私は、行きの便でもそうしたように、すみやかに機中読書にとりかかった。どこかへ運ばれている時間こそベストの読書時間なのだ。といってもそれは混載貨物の小さなつぶやきにすぎないが。
 ドストエフスキー『白痴』を半分読み終えたところでトイレに立つ。通路を歩きながら周囲の席を眺め回し、同類の減少に気づく。読書灯がともっていたのは二席だけ。それもクンツとグリシャムだ。空港のキオスクからぱっと掴み取ってきたのだろう。後退戦は悲しい。シートの背にまで液晶画面に迫られたら、ジェット読書族の命運もそこまで。

 そしていつもの図書館の、いつもの席に戻った私は、あらためてこの場所をいとおしく感じた。ここは固く尖った知の砦ではない。その正反対の、きわめて客あしらいのいい貸し本屋だ。カウンター前では必ず笑顔がふるまわれる。ツタヤも及ばぬけなげさで。聞けば彼女たち全員が<図書館流通センター>からの派遣職員だという。
 現代の公共図書館はまさにポピュリズムの権化である。ひたすら民意につき従う。来館者は貴人のごとく迎え入れれられる。泥棒も変態も分け隔てなく。おりしも館内放送は楽しげに迷子を知らせ、どうぞ置き引きにはご用心をと親切きわまりなく呼びかける。ここは本当に図書館か?
 フランスの村上龍とでも呼ぶべきミシェル・ウェルベックを読んでいたら、「四十代の人間があいついで自殺している日本とかフィンランドなどの陰気な国」という一文にぶつかり、それはどうかと思った。
 私は読書率と自殺率は強い相関があると思っていて、ある時それを調べてみた。統計によれば世界で最も多く図書館から本を借りているのはフィンランド人で、その数は国民1人当たり年に一三冊。対して日本人はたったの三冊。これは大差だ。本も読まずに、いったいどうしたら死ねるのか?

 「本という者を発見したのは、われながら上出来だった」

 そう語ったのはリチャード・ブローティガン。だがその性向が後年の自死(といわれている)を招いたのかもしれない。そしてまた一方ではこんな声もある。

 「かくも多くの人が本を読み、かくも為すすべなく時流の影響を受けている時代はなかった」

 それはT・S・エリオットが言ったこと。個人が個人であることの困難さは、すでに一九世紀にはじまっていたようだ。さらにはまた別の声も。

 「書物というものは、生きている精神が再創造し、それがその人の固有の感受性に、全面的に、創造的に関与を及ぼした場合のみ有効である」

 ゲイ作家エドアンド・ホワイトはそう言う。それは「死」の逆定義にもなっていると私は思う。つまり、のびやかな精神活動を停止させてしまったその時が、その人にとっての「死」ということだ。
 とすれば、いまこの世の中には、生ける屍たちがどれほど多いことか。またそんなゾンビたちに向けられた本の何と多いことか。それは見るもおぞましい風景だ。

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