【書評】イタロ・カルヴィーノ『文学講義』

 作家としての自分に問うことは、私たちの一人一人は、経験や、読書や、さらには想像作用などの組み合わせではないとすれば、何ものなのかということ。
 そしてまた作家としての気がかりは、ほんとうに自我を離れて着想される作品というものがあり得るが、個人的な自我の狭い見通しから私たちを引き出してくれる作品が。
 作家はそれを目指した。大戦を経ての冷戦時代。完全に石になっていくような世界で。
 「私は世界の重苦しさを、惰性を、不透明さを発見しかけていたということなのでしょう。それらは逃れる方法を見つけ出さない限り、すぐに文章に取りついてしまうものなのです」
 書かれたのは『不在の騎士』
 「世界は形をもたぬ巨大な野菜スープ以外の何ものでもなく、そのなかではあらゆるものがおのれの形を失い、しかも他のあらゆるものをおのれの色に染め上げてゆく。ぼくはスープなんかになりたくないぞ!助けてくれ!」
 彼の作品には、まっぷたつに着られた子爵や木に登ったままの男爵が登場する。読み手たちはそれをゴーゴリの『鼻』やカフカの『変身』につながるものとして受け取ったりするかもしれない。作家のコメントを聞こう。
 「わたしにとって語りの中心にあるのは、なにか特異なできごとの説明ではない。その特異なできごとがそれ自体、自らの周囲で展開する<秩序>であり、そのできごとをめぐって、結晶作用のように沈積してゆくイメージが織りなす均整のとれた網目模様なのだ」
 少年時代からの冒険と民話への偏愛、そして大戦期はパルチザンに加わり、冷戦期に共産党を脱党。世界を変える手段は理解する手段と同時にしか手に入らない。それが遺言。

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