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【書評」R・D・レインの転生
「私は人間内部の世界に関心があり、それが荒廃していくさまを日夜目にしているから、なぜそういうことが起こるかを知りたい」
それが彼の動因だった。グラスゴー大学医学部を卒業後、精神科医として英国陸軍に勤務、その後グラスゴー王立精神病院で臨床経験を積んだ。
「分裂病は定義できない。一般化もまた。それを患者のせいにしているだけ」それが彼の知り得たことだった。精神を病むことは、当人の脂質に帰せられるよりはるかに家族的、社会的要因のほうが大きいとわかった。
「個人に隷属を強いる家族制度や社会制度がある世界に、多少なりと適応できるのは、なかば狂った人間だけだ」
レインはそう断じ、やがて医師から社会活動家に転じる。かたわらで本を書く。その筆致は社会告発から徐々に内面探求へ移る。
「われわれは自分自身を皮膚の袋の内側にいると感じています。恍惚の時にこの区分は失われます。恋をしている時とか飢えている時とか高熱の時に。その内と外の区分は、われわれの経験が作り出す意味を我々に与える方向への助力となりますが、それは家族的、社会的オーダーに属することで、自然のオーダーに属することではありません」
自我領域の考察が深まる。とともに精神のあつれきが生まれる。
「人間は檻と柵をいつも必要とはしません。考えることも檻であり得ます」
狂ったのはどっち?
かつて第一線に立ち「彼女は幼児的万能心域にある」とカルテに記した精神分析医は、分裂症患者となってインドに旅立った。そして東洋的達成のうちに没した。最期の探求テーマはおそらく自他のケアだったと思われるが、彼に晩年はやってこなかった。
悲劇的なことは、そうした集団的決断という考えそのものが今日では信用を失っていることだと著者は言う。つまり大義は失われたのだと。集団的主体としての人類には、没個性的で匿名的な社会――歴史的発展を制限する力、その発展を望ましい方向に変える力があると信じられていたのに、そうした考えは「イデオロギー的」あるいは「全体主義的」なものとして切り捨てられる。今日のグローバル資本主義は誰にもコントロールできない「運命」であり、人はこれに適応するか、つぶされるか。大義が問われている。
「われわれは、すべてが暫定的なものとなる時代に投げ込まれている。新しい技術は、日々われわれの生活を変える。過去の伝統はもはや回復できない。と同時に、未来がなにをもたらすのか、われわれはほとんど分かっていない。われわれは、自分たちが自由であるかのように生きることを強いられている・
袋小路だろうか? いや、好機到来だ。
レインわが半生: 精神医学への道 (同時代ライブラリー 13) 新書 1990/3/9