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多元世界に向けたデザイン/アルトゥーロ・エスコバル

忘れないうちに、この本だけは紹介しておきたい。
南米コロンビア生まれの人類学者、アルトゥーロ・エスコバルの『多元世界に向けたデザインーラディカルな相互依存性、自治と自律、そして複数の世界をつくること』。
ここ数年、僕自身が関心をもって調べたり考えたりしてたことにリンクするところが多い内容で共感でき、さすがにここまで整理してまとめられていることに感心させられた一冊。


エスコバルの二元論に対する問題意識

現代の危機とは、家父長制の西洋資本主義近代という文明モデル(modelocicilizatorio)の危機である。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

この問題意識だけでも共感することが多い。
エスコバルは、危機に瀕していると捉えているのは「経済モデル(新自由主義や資本主義)」、「地球上の生命に有害な一連の文化的特性(横行する個人主義や消費主義)」、「高度な政策改革(より包括的な気候変動プロトコル)」、「再西洋化や脱西洋化をめぐる地政学的な権力闘争」、「成長し続ける軍産複合体」といった個別の政策やモデル、活動なのではなく、危機の要因をユニバーサルな世界観に基づく二元論的な思考モデルにあると考えているのだ。

ユニバース:uni-verse。単一のという意味のuni-がついた、世界を「単一のもの」とする見方
プルリバース:pluri-verse。「数個の、多くの」の意味を持つpluri-を接頭語としてもつ、世界を「多元な世界」が共存するものとしてみる世界観

ユニバーサルな単一的な世界モデルと、プルリバーサルな多元世界が共存する世界モデル

ユニバーサルな見方は、人間/その他の生物、文化(人工)/自然、都市(あるいは中央)/地方(あるいは辺境)、公的領域(あるいは、外で働く人としての男性)/私的領域(あるいは、家庭内で働く人としての女性)、ひとりで自立して生活ができている人(成人)/他者によるケア(支援、補助)を必要とする人(子どもや高齢者、障がいのある人)といった二元論的な見方を適用してしまう。
その見方が染み付いてしまうことで、前者を後者より優れたもの、後者は前者を見倣い、それを近づく必要があるもの、あるいはその補助が必要であるものという見方を植え付けてしまい、先進国によってグローバルサウスと呼ばれる地域を低開発国として見做し植民地主義的な開発をすることを正当化してしまったり、ジェンダーギャップの問題として、女性や子ども、高齢者や障がいをもつ人などを成人男性なら自由に入ることが可能な社会領域から排除してしまったりが起きている。
エスコバルが「多元世界=プルリバース」という概念を発明することで、危機の元凶として批判するのは、そうしたユニバーサルな二元論に基づく「家父長制の西洋資本主義近代という文明モデル」なのであり、そこに僕はとても共感する。

という感じで、あまりに共感度が強かったがゆえに、さっそくこんなトークイベントを企画し、12月12日に開催(リアル会場&オンライン配信、無料)することを秒で決めてしまったほど。

イベントでは、監訳者であり、南米チリを中心とした人類学を専門としている神崎隼人さんと、あとでこの本を読んで、あれってきわめてエスコバルのいう「自治=自律的デザイン」のアプローチで進めたものだったなと思った共同プロジェクトを実施させていただいたNECのデジタル・ガバメント推進統括部の篠原雅人さんの2人をゲストスピーカーとしてお招き。
エスコバルの多元世界という存在的概念を神崎さんの専門であるポリティカル・オントロジー(政治的存在論)の観点から読み解いてみたり、文献調査や有識者へのインタビュー、フィールドワークによる多様なインプットをシステム思考(やKJ法など)を駆使して、いまのジェンダーギャップやケアの問題、地方での中心市街地の空洞化や空き家問題などをはじめとする社会問題がなぜ生まれてくるのか(かつ、なぜ解決が困難なのか?)をシステム的な構造として可視化したプロジェクトでの発見の一部を紹介する予定。
そのことを通じて、さまざまな共同体が自治=自律的に共存する「プリリバース=多元世界」はいかにして可能か? はたまた、その実現に向けて、企業は、自治体は、大学は、そして、市民ひとりひとりはどう変わっていかなくてはいけないかの議論をはじめてみようと思っています。

また、以下の記事でも、いまここで書こうとしていることとは別の観点で、プルリバースという概念がなぜいま重要だと思うか、そして、イベントではどんなことを話そうと思っているかもまとめているので、あわせてお読みください。

多元世界に向けたデザイン

ということで、以下からが本題のエスコバルの本の紹介。

多様な知の編み物

エスコバルが家父長的な二元論に基づくユニバーサルな世界観に基づく従来のモデルを批判し、さまざまな自治=自律的な共同体が多様な世界を実現し、かつそれらの共同体がそれぞれ自律を維持したまま、共存する多元世界の重要性について説明し、その実現のための方法について論じた本というのが、この本の乱暴な概要だ。そんな風に乱暴にまとめることができるこの本だが、どうやら多くの人には、この本は少々難解なところがあるらしい。なかなか読み進められないというのは、周りからもよく聞く感想だ。

一方、僕自身ははじめにも書いたとおり、ここ数年自分でも関心をもって調べたり考えたりしてたこととの重なりが多かったので、難解さをそれほど感じることなく(いつも読んでる本と同程度の難解さしか感じることなく)読んだ。面白く感じながらだったから、それなりの厚みのある本(本文が370ページくらい)だったが、1週間くらいでは読み切った。

それでも他の人がこの本を難解に感じる理由はよくわかる。
この本が本当に多様な学問領域を横断している本だからだ。
そのことをまず、視覚的に示すとこうなる。

参考文献にあげられている日本語で読める本の一部

巻末の参考文献にあげられている多様な書物のうち、日本語で読める本の一部の表紙を抜粋して並べたものだ。
この画像にあげたものを分野別に著者と署名をリスト化するとこうなる。

フェミニズム、存在論的デザイン、エピステーメー論、システム論

家父長制的な二元論の問題は、フェミニズム理論やポラニーの資本論、ナオミ・クラインの資本主義批判やイリイチの専門性を問題視する視点が参照される。

デザインの存在論的な問題は主に南米を対象とした人類学的とともに論じられるし、僕たちの社会や見方がそもそも二元論に陥りそこから植民地主義的、家父長的な態度が現在の問題累積する社会システムにつながっていることはラトゥールの論や、フーコのエピステーメ論からも説明される。

この考古学的調査は、西欧の文化の《エビステーメー》のなかに、2つの大きな不連続を示してくれた。ひとつは、古典主義時代の端緒となるもの(17世紀中ごろ)、もうひとつは、19世紀初頭のわれわれの近代性の発端をしるすものである。

フーコー『言葉と物』

そうした二元論から抜け出す手立てとしての自治=自律的なシステムに関しては、ドゥルーズ&ガタリやその系譜にあるデランダの論、さらにはマトゥーラナらのオートポイエーシス論ともに考えられている。

外在性の諸関係はまず、集合体の構成部分が集合体から離脱し、異なった集合体へと接続され、そこでまた異なった相互作用を営むようになることを意味している。言い換えると、諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律していることを意味している。

デランダ『社会の新たな哲学』

こうした多様な知の織物として提出されているエスコバルの「多元世界」論なのだが、同時にそれが難解さを感じる大きな要因となっている。

リストの★印付きのものは僕自身が読んだことがあるもので、★がついていないもののなかでも所有しているものも何冊かある。
僕が難解さをそれほど感じず、むしろ共感を得たのは、きっと普段から参照している書物がもともと近いからだ。

参考までに、以前に書いた本の紹介記事を参考に載せておく。

多元世界を生き抜くには多様な知に通じる必要がありそう

またエスコバルが参考図書に挙げていないが、こうした本もエスコバルの本を読み解くには参考になる。これらを読んでいたから免疫ができていた。

たとえば、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カステロの本は、エスコバルが新しく概念化した「多元世界=プルリバース」という考え方の元になっているといえる人類学分野での存在論的展開と呼ばれる潮流の研究を代表するものだ。
この本では西洋的な科学的な視点による「文化は多様だが、世界(地球、自然)はひとつ」であり、だから自然科学は客観的な1つの正しい回答を出すことができるといった世界観に対して、南米先住民たちの「世界が複数ある」という多自然主義を打ち出している。これを背景として知っておくと、エスコバルの本はだいぶ読みやすくなる。

あるいは、グレアム・ハーマンのオブジェクト志向存在論も、社会(あるいは世界)を個別の対象が独立して存在するという見方ではなく、人間以外も含めたあらゆる対象相互がそもそも相互作用しながら社会(世界)動的に形成しつづけているという世界観を示しているという観点で、ラトゥールのアクターネットワーク理論同様に、多元世界=プルリバースという概念を理解する助けになる。

さらにここに挙げた本に関することだけではなく、そして、多元世界=プルリバースとは単なる概念ではなく、南米などでは現実に起こっている活動・人々の態度であることを理解する上では、1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日を機にメキシコの貧しい先住民が多く住むチアパスの人々の生命と暮らしを守ろうと放棄したサパティスタ民族解放軍をはじめとする、新自由主義的なグローバル資本主義の脅威に対抗する南米各地の自律を求める運動やその背後にある問題についても議論が行われる。

本の冒頭でもサパティスタに言及されている

また、エスコバルがかつて書いた『開発との遭遇』も含む植民地主義的開発論の話も下敷きとして理解しておくと、この話が単なる絵空事ではないことがわかる。
といったかたちで駆け足でここでみただけでも、この本を読み進めるためには事前の知識がすくなからず必要となる本であることは間違いない。
しかし、これからの多元世界を生き、それを持続可能な状態にするには、こうした多様な領域に横断する知を多くの人がもつようになる必要があるということでもあると思うのだ。

開発との遭遇

二元論的存在論の問題

エスコバルが西洋近代の家父長的な二元論モデルを問題視するとき、僕の頭にパッと思い浮かんだのは、ブリュノ・ラトゥールが『虚構の「近代」』で示した以下の図のような、西洋近代の「2つの分水嶺」だ。

ラトゥール「2つの分水嶺」『虚構の「近代」』より

ラトゥールは、西洋近代が、この図で示される社会(文化)と自然(非人間)と、西洋人(私たち)と非西洋社会(彼ら)を二元論的に分断することで、前者による後者からの略奪、搾取、植民地化によって自らの社会をつくりあげていることを糾弾する。自然あるいは非西洋社会を保護の名目で征服しようとすることを批判している。

同じように、エスコバルもこのラトゥールの話に言及しつつ(エスコバルはさに主体/客体の分割を加えているが)、彼の同僚マリオ・ブレーザーの「支配による分断」という表現を紹介しつつ、我々と彼らの分断と文化と自然の分断が不可分であることをラトゥール同様に指摘する。

本書で西洋近代の支配的な形態と言及するものについて、数多くの研究者が三つの基本的な二元論を強調している。その三つとは、自然と文化、我々と彼ら(あるいは西洋とそれ以外、近代人と非近代人、文明人と野蛮人など)、そして主体と客体(あるいは精神と身体の二元論)の間の隔たりである。ラトゥール が最初の二つの分裂を近代の構成の中心だとしたことはよく知られている。ブレイザーは、我々と彼らの分断が自然と文化の分断の形成と機能に不可分であるとし、これを「植民地や「支配による分断」と呼んでいる。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

存在論的デザインの議論が「デザインはデザインする」(アン=マリー・ウィリス)、「我々は道具をデザインし、道具は我々をデザインし返す」(エスコバル)といった表現で、私たち自身が自分たちがデザインした人工物(観念や概念、思考モデルも含めて)によって、私たち自身がそれらにデザインし返されているという関係性を明らかにしているように、私たちはフーコーが17世紀と19世紀の2度のエピステーメーの変更を通じた世界観との変更によって、それまでの世界に対する姿勢を忘れ、かつてとは別の世界に住むようになった
1度目は機械論的に人間は世界をコントロールできるかのように、そして、2度目はさらに純粋な機械論的というよりさらに人間が介した創造性によって世界をコントロール可能あるいはコントロールすべき対象だと考えるようになった。

その下敷きになっているのはデカルト的な機械論であるし、カントが物自体という言葉で人間と世界を完全に分断したことで、それによりラトゥールが「近代人は、自ら生み出す発明が社会秩序にどのような影響を与えるかについてはまったく頓着していない」で、地球環境や、グローバル・サウスや、貧しい人たちが、自分たちが選んだ生活や仕事によって、どんな影響を受けるのか無頓着でいられる(その結果、地球環境やグローバル・サウスや自国の貧しい人たちがどんな困難な状態に陥ることになろうとも)。

しかし、エスコバルは問題を二元論の存在そのものではない」ということも明らかにしている。「多くの社会は二元性を軸に構築されてきた」が、古代中国の陰陽のような二元性は、相補性のある非階層的な組み合わせであり、これはいま問題視しているような問題は引き起こさない。
問題なのは、そうした相補性や非階層的な組み合わせを分断し、階層構造化(ヒエラルキー化)してしまうことだというのがエスコバルの指摘するところだ。

現在のラテンアメリカの視点では、この特徴は”コロニアリティ"と呼ばれる。その中心的な特徴は、差異の分類と階層的な区別であり、近代の形態に適合しない知識や存在の形態を支配的に抑圧し、切り捨て、従属させ、さらには破壊することである。さらにコロニアリティは、性別の観点から分類された人間/文明(西洋)世界と、非人間/未開(非近代、肌の色が暗いとされる諸民族ー動物と同じように生物学的な性別で説明される存在)といった二分法を強固にした。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

他律と自律

こうした階層的な従属、搾取、破壊の問題はなにもラテンアメリカやアフリカの国々の対岸の火事的な問題ではない。
日本における中央集権や東京への一極集中、ジェンダーギャップ、経済的な格差による貧困層のQOLの問題など、基本的には同じ分断的・階層構造的な性格をもった二元論に起因する。
しかも日本の場合、二元論の階層が西洋ほど整理されてもいないために、たがいにたがいを非難しあう構図が簡単に生まれてしまう。この現象は、個々人がある意味多元な世界の住人だという見方もできるが、実際は個々人の世界それぞれは個々人が自律的な思考によって生み出されたものではなく、むしろ、個々人がそれぞれ採用している他人の言葉への他律的な従属によるものだからタチが悪い。たがいにちゃんと理解しているわけではない異なる他人の言葉をふりかざし、ただ自分の保身のためにマウントをとろうとするのだけど、それでは仮にマウントをとることに成功したとしても何も残らない。他律的に誰かに従属している状況は変わらないからだ。

ここでエスコバルによる「他律」と「自律」の区別を確認してみよう。

他律(Heteronony):規律が他者によって(専門家の知識や制度を介して)確立される場合。規律は普遍=単一世界的、非人格的、標準化されたものと見なされ、かつ合理的な熟議や政治的交渉を通じて変更される。
自治=自律(Autonomy):規律を内部から変えるための諸条件が存在する場合。あるいはさまざまな伝統を伝統に則って変える能力。これはある実践の防衛、別の実践の変容、新しい実践の真の発明を伴うだろう。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

他律の側には、イリイチが批判するような「専門家の知識や制度」を介した規律があり、科学的客観性をひとつの盾にして自然はひとつのものとして普遍化してしまい非人格的・合理主義的な判断がある。
一方の自治=自律は、システムとしての共同体、エコシステムの内部的な実践に基づく規律がつねにシステムそのものの新たな実践とともに更新されていく。

ケアの倫理

これはフェミニズム論の文脈で提示される「ケアの倫理」と呼ばれる(従来のユニバーサルな「正義の倫理」に対置される)倫理的態度と重なるところが多い。

1つの道徳のあり方が示される。一方は、諸権利が競いあう場合に、客観的で公正な原理に基づき、形式的に優先順位をつけて道徳問題を解決しようとする思考様式であり、他方は、責任がぶつかりあうことから生じてくる道徳的問題を、具体的な語りのなかに文脈づけることで解決しょうとする考え方である。前者は公正としての道徳概念であり、つながりより分離を強調する傾向があり、後者はケア活動にかかわるなかから構想されてくる道徳概念であり、つながりのなかで生まれる責任を重視する傾向がある。

岡野八代『ケアの倫理』

この引用のなかで公正にもとづく正義の倫理が「分離を強調する傾向」があり、後者のケアの倫理は「つながりのなかで生まれる責任を重視する傾向」があるというのは、分断による支配につながりやすい他律的なあり方と、共同体内部での実践により自律的な規律を合意形成し続けるあり方につながるのではないだろうか。
このあたりは、フェミニズム関連の本をたくさん読んでて、下記の記事を書いた時期に考えてたことなので、エスコバルの考えを理解するのにも助かった。

他者と調和した新しい種類の社会に向けた闘争

サパティスタが登場し、「もうたくさんだ! (Ya Basta)」と訴えて以来、ラテンアメリカでは主に先住民諸集団の間で、それだけでなく他の農村や都市の集団の間でも、自治を求める闘争が繰り広げられてきた。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

サパティスタ民族解放軍は武装した集団だが、実は武装蜂起したのは1994年の最初の一度だけだ。彼らが目指したのは現政権(当時の)からの政権奪取ではなく、あくまでチアパスに暮らす先住民たちの権利であり、自治的で自律的な社会をグローバル社会やメキシコ政府の圧力から守ることだった。
つまり、現政権とは別のもう1つユニバースを自分たちがマウントをとるかたちで勝ち取ることではなく、あくまで現政権の世界からは自律したかたちで自分たちの世界を自治的に維持・運営することだった。

そんな共同体が、多元にあることを目指すことが、家父長制の西洋資本主義近代という文明モデルが引き起こす、環境危機、生物多様性、貧困、分断、女性や子どもの問題などを解決する真の方向性であることをエスコバルは提示している。
その方法が自治=自律的デザインなのだがら、その内容については、この記事に書いたりしたので読んでいただくか、

こちらのイベントに参加いただいて、ゲスト講師を交えての議論に参加いただければと思っている。

「奴ら皆出て行け!一人も残らず! (Cuese wiyan todos que no guede ningamel」というアルゼンチンの失業者による叫びは、政治家たちや経済界のエリートたち全員に向けられた。その異議申し立てで、抗議運動の参加者たちの訴えによれば、2001年の経済破綻以降誰一人として信用されなくなった。以来同様の叫びが、南欧の「怒れる者たち運動」や米国の「オキュパイ運動」においても見られる。ラテンアメリカでは、自治の叫びに含まれるのは、形式的な民主主義への批判だけでなく、人々の生活につなぎとめられた、今とまったく異なる統治の形式を構築する試み、解放に向けた闘争、他なる諸民族や諸文化と調和した新しい種類の社会に向けた闘争である。

エスコバル『多元世界のためのデザイン』

僕らは、こんな風に自分たちのための自治の叫びを発し、「他なる諸民族や諸文化」さらには諸生命と「調和した新しい種類の社会に向けた闘争」のために動き出すことができるのだろうか。

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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