真理とはそれが錯覚であることをひとが忘れてしまった錯覚である
「語というものにあっては、問題となるのはけっして真理でもなければ、適正な表現でもない。そうでなければ、こんなに多くの言語が存在するはずがないからである」とニーチェは言う。
これが「道徳外の意味における真理と嘘について」と未完の短い研究からのものであることは、『歴史・レトリック・立証』でカルロ・ギンズブルグが教えてくれる。少し前にギンズブルグの『闇の歴史』を読んで以来、彼の歴史学にたいする姿勢が面白くて、この本も読みはじめたわけだ。そして、『歴史・レトリック・立証』もまだすこし読んだだけだが、やはり面白い。
歴史・レトリック・立証にかんする議論はわたしたち全員に関係のあるひとつの問題と触れあうところのある議論なのである。さまざまな文化のあいだの共存と衝突という問題がそれである。わたしたちがわたしたちのものとは異なった慣習や価値の存在を受け容れるべきであるというのは正しいことだ、とわたしたちのうち多くの者は考えている。が、わたしをふくめて、一部の者は、それらをつねにどんな形態のものであっても受け容れるのは耐えがたいことだ、と考えている。
というのは、ギンズブルグのこの本を書くにあたっての問題意識としてあるわけだが、冒頭引用したニーチェの話もこの文化間の衝突と共存、異なった考えや習慣をもつ者同士の衝突と共存というテーマへとつながっていく。
さて、先のニーチェの言葉のあとにはこのような文章がつづく。
語のそれぞれは徹頭徹尾個別的なものである感覚的経験を恣意的に一般化したものなのであり、どの概念も、それがふくんでいるのは忘れ去られて無意識的なものになってしまった隠喩でしかない。
前にも「言葉と他者」というnoteで、ニーチェの言語観についてはすこし紹介している。基本的には理想とか真理のような絶対的のものへと向かうよりも、解釈や価値評価のような個別の解釈者や評価者の存在が見える方向のものを志向するのがニーチェといえるか。いや、解釈者や評価者が単独で存在するというより、その解釈や評価を彼らと交換する人とのセット、あるいは、そのやりとりの継続性が想定されているのだと思う。だから、そこでは誤解も生じるし、伝達のズレも起こる。そこに真理や適正な表現がないのは当然である。冒頭紹介したギンズブルグの問題意識とニーチェの思想がつながってくるのはまさにこの地点だといえるだろう。
この人間的な語のありようと対比する目的て、ニーチェは先の研究の冒頭を、広い宇宙からみた人間の歴史のちっぽけさを伝える短い寓話からはじめている。
そして、「宇宙の無限性を前にしては人間の歴史の諸時代や人間の自負のかずかずは色あせて取るに足りないものと化してしまう、とニーチェはつづけている」とギンズブルグはいう。ギンズブルグは、こう補足する。
もしもわれわれが蚊と意思を疎通させることができたならば、蚊もまた自分が世界の中心であるも考えていることをわれわれは見いだすだろう。しかしまた、真理を知っているのだという人間の自負は、はかないものであるばかりか、錯覚でもある。
と。
この自負がどこに根ざしているかというと「言語の呈している規則性」だ。
だが、残念ながら、その言語はしょせん真理とは程遠い、「徹頭徹尾個別的なものである感覚的経験を恣意的に一般化したもの」でしかない。だから、人が真理を知っているなんて考えは、愚かな妄想でしかない。
いまこの現実においても、実際もさも真理を語っているかのように、自分の主張のみにこだわり、まわりの人を批判する人がいるのだから、この「言語の呈している規則性」というのはほとほと厄介だと思う。
そういう頑固な人には、ニーチェのこの言葉を捧げたい。
「それでは、真理とはなにか。それは隠喩、換喩、ものごとを擬人化したものの変動する一群であり、要するに人間的諸関係の総和であって、それが詩的かつ修辞的に強調され、転移され、修飾され、そして長いあいだの使用ののちに、一民族にとって、確固として、規範的で、拘束的のあるものとおもわれるにいたったものである。真理とはそれが錯覚であることをひとが忘れてしまった錯覚なのである」。
大抵、自分の主張が正しいものであると固執してしまうひとは、この錯覚を完全に忘れてしまって、異なる意見をもつ人をとにかくやり込めようとする。なぜ、そんなにもマウントをとらずにはいられないのかと感じずにはいられない。
さて、ギンズブルグはこのニーチェの考えと、ソクラテスのレトリック嫌悪を並べている。
「弁論術はつねに、なにが正しいことなのかを指示するという、このひとつの目的のために用いられるのでなければならない」とソクラテスは『ゴルギアス』の結論部で述べていた。これにたいして、レトリック=弁論術のうちにニーチェが探しもとめていたのは、「道徳外の意味における真理と嘘について」省察させてくれるような道具だった。
とにかくソクラテスは、ギリシア時代の弁論師たち嫌った。弁によって聴衆を制しようとするのではなく、対話によって正しさに到達する方法こそを提唱した。民主的に法をつくることを選択したといえるだろう。それが錯覚であることを忘れて何かを真実と信じてしまう錯覚を回避するための方法が対話だといえるだろう。
しかし、上の引用中にある『ゴルギアス』中で、その対話的なソクラテスの方法を批判するものが現れる。
ソクラテスは不正を犯すよりは被るほうがよいと主張し、ポロスも最後にはソクラテスに同意する。すると、このやりとりを聴いていたカリクレスが腹立たしげに割って入って、自然と法律習慣とを対立的にとらえたうえで、ソクラテスのくりだす論拠は自然の領域で通用するものを法律習慣の領域に不当に横滑りさせたものだといって非難する。
カリクレスは、人工的な法よりも、自然の法のほうが優れていると主張する。
「というのも、自然本来の性格からいえば、災厄のより大きなものはすべて、より醜いのであり、たとえば、不正を被ることのほうが醜いのにたいして、法律習慣では、不正を他人に加えるほうが醜いとされているのだから」。不正を甘んじて受けるなどということは、一個の男子たる者にあるまじきことであって、奴隷にこそふさわしい。立法者というのは世の大多数を占める力の弱い人間どもであって、かれらが法律をつくるのは自分たちの自己利益を考えてのことにほかならない。
ニーチェが付いたのは、このカリクレスの側だったのだと言える。
自然本来の性格というのは、ニーチェがいった人間にたいする宇宙にほかならない。弱い人間どもは結局は自分の利益のために立法するのだ。
一見、ソクラテスの対話の方法は、ニーチェのいう錯覚を起こさせない方法であるかのようにも感じられる。しかし、「弁論術はつねに、なにが正しいことなのかを指示するという、このひとつの目的のために用いられるのでなければならない」というソクラテスの主張はやはり、何か正しいことがある=真理があることを肯定してしまっている。
一方、ニーチェはそうではない。
あくまで、真実であるということは「慣用の隠喩を使用する」ことで、それを道徳的に言い換えると「ある確固とした慣習にしたがって嘘を言う義務があるということ、群衆と歩調をあわせ、万人にとって拘束的なものとなっているひとつの様式でもって嘘を言う義務があるということ」としている。
ソクラテスが正しいと想定しているのも結局はこの嘘である。現代において、自分の主張を曲げない人もこの嘘を単に他人にも強要しているのに過ぎない。ようは自分の利益のための立法だ。
結局、知というものをどう捉えるかの問題なのだろう。
知というものを真実を知るためのものか、さまざまな他者とうまく暮らしていくための共同知を得ることなのかという選択ではないかという気がする。
そして、後者を選ぶ際には、知を新たに(自分たちで)組み立てる力が否応なく要請される。これができないがゆえに、いつまでも自分の考えに固執して前に進めなくなってしまう人も少なくない。だが、無意味な対立を避けようとすれば、この知を組み立てる力は不可欠だ。いま、この知を人がもつためにはどうすればよいか?というのが悩ましいところだ。
これができるかどうかは、頭のいい悪いではない。むしろ、姿勢の問題である。失敗や間違いを認められないプライドや恐怖心、マウントをとりたい欲などを捨てて、組み立てる苦労をすることができるかどうかにかかっている。
一時的にかっこ悪くてもいい、そのかっこ悪さを脇に置き、いつまでも自己主張しかできずに批評ばかりして何も生みだせないことを恥じるようにならないと、自分が苦しいだけでなく、まわりまで潰してしまうことになる。
それはあまりに不幸すぎはしないだろうか。
批評家ではなく、つくる人にならないと。