風の谷のイナトリ
今年最初の緊急事態宣言が終わった後の3月、静岡県は稲取に足を運んだ。
稲取は伊豆半島の東側にある、人口5000人ほどの小さな街。
キッカケは友人の高浜くんからのお誘いだった。
大手メーカーに勤めている彼が、年に何度か伊豆でワーケーションをしているのは知っていたし、何度か誘われていた。
私は岡山に住んでいるのだが、3月からしばらく東京に滞在する用事があったので、その道中で稲取に向かうことにしたのだった。
せっかくなので、岡山から青春18切符で、普通列車を乗り継いで稲取まで行くことに。
稲取まで行けるのかと思いきや、伊豆半島の伊東駅から先は伊豆急行線という私鉄路線になるので、JR専用の18切符は使えないことが判明した。
それでも伊豆半島の海岸線を沿うように走る列車からの眺めは圧巻だった。
向こう岸(四国)が見える瀬戸内海に慣れ親しんでいる分、水平線の向こうまで何も見えない太平洋を眺めていると、一人の人間の存在のちっぽけさを浮き彫りにされた気がした。
伊豆稲取駅で下車し、駅舎の外に出て感じたのは「風の心地よさ」だった。
都市の淀んだ空気ではなく、澄んだ心地よさと潮の匂いが漂う風。
駅から歩くと、ほどなくして港が見えてきた。
この街の産業の一つが漁業で、市場には新鮮な魚がたくさんあり、海鮮料理のお店もいたるところに点在している。
人が生きる営みの「食」を、目に見える範囲の自然から調達しているのが、都市にいると忘れてしまう自然の存在や、その恩恵で生きていることを思い出させてくれた。
港町を尻目にしばらく海沿いに向かって歩いていると、岬の先端の手前に「EASTDOCK」がある。
(高浜くんのnoteより)
EASTDOCKは、稲取に住む若者が立ちあげたコワーキングスペース。
Wi-Fiも完備されていて便利なのはもちろんのこと、海の真横のロケーションがすばらしい空間。
一面に広がる大海原を眺めながら、ネットをつないで作業もできるという、自然の壮大さと文明の利便性の両方を一度に味わえる場所は(大袈裟)なかなかないと思う。
ここを立ち上げたのは、稲取で地域おこし事業に取り組んでいる荒武優希さん。高浜くんが彼と私をつないでくれた。
(荒武さんのFacebookより)
荒武さんは出身が横浜で、稲取が地元ではない。
建築を学んでいた学生時代に、空き家の改修に関わったのがキッカケで稲取に住むことになったらしい。
地域活性化に必要な人材の類型に、「ワカモノ・ソトモノ・バカモノ」という表現がある。
若くて、外から来ていて、失敗を恐れない大胆さ(いい意味でのバカ)が必要ということから言われているのだが、まさに荒武さんにふさわしい表現だと思う。
大学で学んだ建築の知見を活かせる空き家を探していたところ、偶然にも稲取がある東伊豆町の役場とつながり、それが今に至るまで続いているらしい。
稲取に来た当初は、地元の人の目には「何がしたいのかよく分からない若者」のように映って、うまく関係を築けない日々もあったという。
それでも、地域の歴史と歩みを同じくするかのように、地道に事業に取り組んできたのが功を奏して、今では街になくてはならない存在に。
現在はEASTDOCKだけでなく、宿泊業からカフェまで幅広く手掛けられている。
仲間も次第に増えて、移住した後に出会った奥様(悠衣さん)も経営に携わるようになった。
(左が悠衣さん、右が私)
荒武さんと話していると、言葉の端々から「稲取愛」と「覚悟」が伝わってきた。
決して奇をてらった仕掛けを施すのではなく、地元の人の声も聴きながら、稲取の歴史をどう未来に繋いでいくのかを真剣に考え、実行されている。
荒武さんが稲取に惹かれたひとつが、自然の豊さ。とりわけ海の存在。
「海は日によって表情が違って、いろんな顔を見せてくれるんです」と言う。
彼を虜にした稲取の自然は、刻々と姿を変え流動的に移り変わる存在だ。
だからこそ、人間が頭の中でこしらえた抽象物を拡大再生産してきた近代文明や、自然の恩恵からも恐怖からも目を遠ざけて暮らすことのできる都市の行き詰まりを、ここにいるとかえって強く意識するようになる。
ある人は、稲取を「人生の停泊所」と表現しているらしい。
ここ数年、誰もが経験したことのないコロナ禍で、日常の喧騒から逃れるための場所として、稲取は最適だと思う。
コロナが変えてしまったもの、奪ったものはたくさんあって、もう元の日常には戻れないのかもしれない。
そんな混沌と化した世界のなかで、少し立ち止まってその歩みを再考する「停泊所」こそが、社会に必要なのではないかと思う。
たまには自然に身をゆだねて、風のなかで気持ちを落ち着かせる場所。
新たな社会の在り方や人の生き方も、そんな場所から生まれるのかもしれない。
稲取はこれからも未来に向けて、刻々と姿を変えていくのだと思う。
目下、荒武さんが中心となって、新しいコミュニティスペースの設立に向けて動かれていて、その資金をクラウドファンディングで募っている。
(クラファンサイトより)
またしても取り組むのは空き家の改修事業で、カフェと宿を融合させた、地元の方と観光客の交流拠点となる場所を立ち上げるとのこと。
荒武さんいわく「人生をかけた挑戦」で、稲取にさらに人を呼びこみ、移住までいかずとも、稲取とつながっている人の数(関係人口)を増やしたいらしい。
(クラファン運営の藤田翔さん、荒武優希さん、悠衣さん)
まだまだ見たい風景がたくさんあったけど、荒武さん夫妻と語り合い、ひとしきり街を散策してから再び東京への旅路に戻った。
たった一度の滞在で、まるで第二の故郷になったかのような心持ちになったのは、稲取の穏やかな潮風と、そこで生きている皆さんのお人柄に由るのだと思う。
自分の家以外にも、「ただいま」と言える場所があること。
その喜びを求めて、いつか完成したら再び足を運びたいと思っている。