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【第22弾】「自分」という感覚

数学の課題もしなければならないのに、
最近記事をたくさん挙げておいてまだ全然読んでないのに、
MOOCで勉強するする詐欺しているのに、
本を10日までに返さないといけないのに、
と、タスクに追われている「自分」を横目に、このnoteを書きたい「自分」がいたので書いている。書き終わったらご褒美にお菓子を食べようっと。


先日こんなnoteを書いた
ここでも「自分」という言葉はキーワードになっていたのだが、このnoteもそんな話を書く。

また、先日2年前の縁からまだ関係が続いている仲間たちと近況報告会をした際にも話題になったことなので、書いておきたいと思っていた。



そもそも幼少期から「自分」という感覚があった

①自分と他人は別なのだという感覚

人はだれしも違う。肌の色も、瞳の形も、髪の毛も、何もかも、同じ人なんていない。そんなことを幼少期からずっと思っていた。

「多様性」なんて言葉があるけど、そんな言葉使わなくても人が多様であることは”当たり前”で”前提”として私の中にあった。

②人を嫌いになったことがない

このnoteにも同じようなことを書いた

人の良い所も悪い所もわかっていて、かつ、良い所も悪い所も見方によって変わるんだってことも気が付いていた。だから人の悪い所だけを見て人を嫌いになったりしなかった。

③自分を自分でコントロールしているという感覚

幼少期からメタ認知している自分がいた。怖い(笑)

自分の体が何かをしていることが楽しかった。

自分の体に自分が乗り込んで、操作しているようなそんな感覚があった。

(正直これはあまり説明できない)


自分がすごく大切だった大学1年

私は大学一年の時にコミュ障を克服した
(その話はこのnoteで書きました)

それゆえに私は「自信」にみなぎっていました

またそれゆえに天狗にもなっていました(お恥ずかしい、、、)

自分がすごいんだって成功体験があるから、自信があって、それゆえに自分を信じていました。自分だけを信じていました。

外部から学びは積極的に取り入れるけど、けどそんな自分に酔っている側面はあったんだろうと思います。
ゲームで自分をレベル上げしている感覚です。

だからそんな「自分」がすごく大切でした。これを失くしてしまったら私には何も残らない、それくらい私の中で「自分」に依存していました。

ある意味自己中だったし、すごく驕っていたんだと思います。


2年の休学を経て、3年になって

そんな驕り高ぶっていた私が「自分」を失くしたのがまさに2年になった時だったのだろうと思っている。だから私は休学した。
(その話はこのnoteに書いてある)

自分のレベルアップはするけど、自分を見つめなおし、自分と向き合うことをし続けた休学期間だったと思う。

そしてそこで気が付いたのは、自分は他人からできているということ

このこと自体には大学一年の時にも気が付いていたけど、それを深く実感できたのは2年の休学期間のことだ。

その自分と向き合い続けた経験があったからこそ、3年の始めコロナ禍でも自分を失わずに入れたのだと、今この文章を書きながら思った。


今「自分」という感覚は、、、

・前回のたむとろnoteにも書いたように「自由」という感覚によって代替されている側面が1つ

・幼少期からあった「自分」という感覚は今も持続していて、だからめちゃめちゃ生きやすい、という側面が1つ

・それから、自分の命を社会のために使うんだって感覚が1つ
(そんなに詳しくじゃないけどこのnoteに書いた)

その3つが相まって今は「自分」という感覚を持っている
だから今は自分大好きな自分勝手な自己中やろう、ではない
(と信じている、わからん、人はどう思っているのだろうか?)



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最後に

私の過去のnoteをたくさん引用した

やっぱり私の思考はどこかでつながっていて、結構この「自分」という感覚が根底にあるんではないかと最近では思っている
あとは「死にたくない」って感覚も根底にありそう

自分は出来た人間だなあとつくづく思っていて、ある種宗教的だけど、
皆が私と同じ思考をすることができれば、みんなハッピーになれる
とさえ思っている(笑)

(その話はこのnoteに書いた/なぜ「たむとろ」なのかである)

1つでも参考になることがあれば好きにまねてください
疑問や抗議も大歓迎です
対話しましょう~!

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