残された駅、白い岩壁、海岸に集うものたち|土地と文化 〜野蒜海岸編〜
2024年10月20日。
ぼくは宮城県東松島市の野蒜海岸へ探検しに行った。
本当はフィールドワーク、と言いたいところだが、学術的な手法で調査しに行ったわけではないので自制しておく。
でも、良い体験をしたことには変わりないので、記録することにした。
復興、未来へ向かうエネルギー
午後2時くらいに、仙石東北ライン上にある野蒜駅へ向けて出発。
快速電車に揺られながら、同行してくれた二人の後輩(K君とM君)と談笑する。
あと少しで到着、というあたりで、K君が野蒜駅について教えてくれた。
「実は今ある野蒜駅って、震災後に山の上に移設されたんですよ。」
M君と一緒に「へぇ〜」と感心する。
その話題を振られたとき、ぼくは改めて“震災”というものを意識した。
東日本大震災。
当時、ぼくは小学四年生で、その日はそろばん教室へ行く日だった。
太平洋側で起きた未曾有の大災害は、秋田県にまで影響を及ぼした。
ぼくと家族も、一日中続いた停電と余震に怯えて、全員揃ってリビングで寝た。
やがて朝日が昇り、とてつもない安心感を抱いた。
そのとき同時に停電も解消され、勝手にテレビが点いた。
瞬間、抱いた安心感は消え、目を疑った。
ぼくは生まれて初めて“津波”の被害を見た。
福島原発の話題もあったが、小学生の自分には理解できなかった。
それよりもショックだったのが、津波の映像。
街そのものが海に襲われ、瓦礫の山と化してしまっていた。
今向かっている野蒜駅周辺は、まさに津波の被害を受けた地域だ。
そのことを思い出させてくれたK君は話を続ける。
「たしか、旧野蒜駅も残っているはずなんで、行きましょう。」
当初の目的は野蒜海岸へ行くことだったが、この提案は無視できない。
むしろこの地域を知るためには行くべき場所だ。
そうして計画を話し合っているうちに、野蒜駅に到着した。
ここで下車したのはぼくら三人だけだった。
仙台へ向かう電車を見送りつつ、改札口へ向かう。
突然エレベーター前でK君が暴れ出した。
どうやら蜘蛛の巣にひっかかったらしい。
「これがマルチスピーシーズですねぇ」と呟く。
違うだろ、とツッコミを入れている間に、M君は一人階段で改札口へ向かって行った。
改札から外に出る。
天気は晴れだが、海風が強く冷たい。
事前に防寒するように伝えて良かった。
ぼくらは秋の寒さを感じながら、地下道を通って反対側へ出た。
かなり新しい地下道を通りながら、この街の復興を肌で感じていた。
破壊を元に戻す「復旧」ではなく、さらに進展させる「復興」。
K君とM君の会話を聞きながら、ぼくは震災が決して過去の出来事ではないことを考えていた。
あの震災が起きたのは約13年前だが、そこで起きた全てのことは今に繋がっている。
震災遺構を保存して記憶を未来へ継承していくこと。
街並みを新しく整備してこの地で暮らし続けること。
復旧、つまり元通りでは過去に留まるだけだ。
復興という未来へ向かうプロセスであることが重要なのだろう。
人々の生活そのものが、常に復興を意味しているのだ。
アメリカの歴史学者ガブリエル・ヘクトは、アフリカの放射性廃棄物に関する調査の中で、過去、現在、未来を一本の線として分析することの重要性を説いている。
ちょうど最近そのアプローチを勉強したので、ここ野蒜の風景もそのように思えた。
過去を受けて、現在の人々が、未来へ向けて歩むこと。
土地と歴史と文化の混交が、街並みを作っていくのだ。
石が動かし、育んだ文化
復興祈念公園からほど近いところに「野蒜石の蔵」という史跡がある。
ここはもともと計画にはなくて、存在も知らなかったのだが、せっかくなので寄ってみた。
すると興味深いことがわかった。
それを説明するために、まずは東松島市の地質について説明しよう。
ここ東松島市は、日本三景として有名な松島(町)と隣接している。
名前が似ているので誤解されがちだが、東松島市に“松島”はない。
しかし今は、松島のあの特徴的な風景がヒントになる。
松島湾に浮かぶ大小さまざまな島。
白い岩肌と、それを覆うように生える松林が美しい景観を作る。
あの白色の正体は凝灰岩である。
比較的柔らかい材質であるため、波、風、雨などで風化しやすく、海食崖と呼ばれる形状になっている。
そこに松林がアクセントとなって、見事な景観を作っているのだ。
ちなみに、松の木について補足しておくと、もともと自生していた種もあるようだが、一部の松は砂防林として植樹されたらしい。
海に近い街ならではの砂害対策だ。
このように、自然の脅威に対して他者の力を借りて防ぐというのは、自然の力を克服して統治するのとは全く異なるアイデアだ。
このような工夫こそ、〈共に生きる術〉である。
東松島市も、この凝灰岩の地質を有しているため、野蒜駅周辺から少し歩いたところの山肌や岩壁も同様に白い。
しかし松島と異なるのは、その一部が、人工的に切り出されたような平面となっていることだ。
これはかつてこの地域が石材産業を営んでいた痕跡である。
そう、野蒜石とは、この地で産出された石材のことを指している。
その野蒜石で作られた蔵が「野蒜石の蔵」ということだ。
この地で育まれた文化(政治、経済、教育、etc…)には、野蒜石が深く関与している。
そのように考えると、土地(地理&地質)と文化を包括的に捉える必要があるだろう。
…と、またマルチスピーシーズ的思考の癖が出てしまったが、間違いではないと思いたい。
それにしても、「野蒜石の蔵」のすぐ横にあったカフェ、寄りたかったなぁ…。
あらゆるもの/者/モノが集う場所
いよいよメインの目的地である野蒜海岸へ向かう。
「野蒜石の蔵」を通り過ぎて、浜へ向かって徒歩で行く。
時刻は午後3時を回っており、西日のせいで暑くなりはじめた。
上着を脱いだりして調節しながら進む。
海岸へ向かう道でも発見があった。
夕日も眩しくなってきたころ、開けた場所が現れた。
立っていた看板を見るに、どうやら公園兼臨時駐車場のようだ。
その場所のすぐそばに、雑木林に囲まれた石碑がある。
せっかくなので近くで見てみようと思い、M君と近づいていった。
それには「鳴瀬第二中学校校歌」と刻まれていた。
なぜこんなところに校歌が刻まれているのか?
そのときは海に向かうことに専心していたため、深く考えることはしなかった。
東松島市立鳴瀬第二中学校。
ここは震災で甚大な被害を受けた中学校だ。
押し寄せた津波が運んだ土砂や瓦礫が、校舎の中をぐちゃぐちゃにした写真があった。
そして、多くの方がその犠牲となった。
ぼくたちはこれらの情報を、帰って来てから知ることとなった。
このことは、かなり反省している。
野蒜海岸に行くことがメインだったため、事前に調べたことと言えば海岸の長さや周辺の自然、そしてその日の天気くらいだった。
今になって思えば、この地にしっかりと眼差しを向けるべきだった。
その心構えさえあれば、石碑を見たときに手を合わせることもできたはずだ。
自分らへの戒めのために、あえて素直に書き残しておく。
夕焼けが眩しくなるころ、ようやく海岸に到着した。
景色もよく、着いただけで相当な満足感があったけど、それがゴールではない。
この地を直接歩き回ることで得られる身体知から、海岸とは何かを考えてみることがミッションだ。
さっそくぼくたちは、各々自由に散策を始めた。
10月の海風はかなり冷たい。
晴れていたが風も強く、防寒対策を意識した過去の自分に感謝した。
なにを思ったかK君は、秋の気温で冷え切った波をサンダルで守っただけの素足で迎えて「しゃっけぇ〜!」と叫んでいた。
M君と二人で呆れて見ていたのだが、よほど耐えられなかったのか一人で足を洗いに行ってしまった。
ということでM君と共に海岸の観察をはじめた。
まず真っ先にぼくが想起したのは『ものうちぎわ』という三澤デザイン研究室が制作した作品だ。
一つのオブジェクトが展示されているのではなく、石や流木、貝がらや何かの骨、プラスチック片やガラスといった浜辺に集まる無数の「何か」を並べた作品である。
あらゆるものが交差し、乖離し、やがて一つの場所に収束する、その場所こそが浜辺である、と捉える。
ぼくはこの野蒜海岸も、まさしくそうだと思った。
夕日に照らされた波が寄せたり引いたりするのを観ながら、ぼくは足元に散らばる無数の「何か」を注意深く見ることにした。
ここにはたくさんの痕跡がある。
ここで命を繋いでいるもの/者/モノや、ここで命を終えたもの/者/モノの、「生のかたち」が残っている。
足跡、貝殻、骨、流木、木の実、シーグラス、ごみ。
たくさんのもの/者/モノが集積されて、海岸という風景を作っている。
だけどやはり、自然ではないもの/者/モノ —— 不自然ではなく非自然の —— は悪目立ちしている。
それらはこの地に還らないから、別の力で除くしかない。
この点においては、ぼくたち人間の力が試されるだろう。
土地を知り、文化を知る
海岸から駅へは徒歩で戻った。
振り返ると一日中歩いていた気がする。
三人そろって疲労困憊だった。
でも、マルチスピーシーズという観点を持って海岸を見ると、多くの発見があった。
この体験は記録しておきたいので、だいぶ時が経ってしまったが文章に起こしている。
野蒜という街を知るためには、震災と復興、石材産業と地質、海岸の景観、そしてこれらと絡まり合う人々の暮らしを理解する必要がある。
それを座学だけではなく、実感を伴う経験として学ぶことができた。
マルチスピーシーズ的思考の良いところは、何らかの事象をさまざまな側面から分析しながら、それらを独立した思考ではなく総体として捉えることができる点だろう。
ミクロとマクロを往復することで見えてくるものがる。
今回を例に出すなら、野蒜の土地(地理&地質)と文化(政治、経済、教育)が強固に交わっていることがわかった。
こうした思考の訓練は今後も続けていきたい。
さて、そろそろ本格的に冬がやってくる。
寒さが厳しくなる前に、もう一回くらいは探検しに行きたいが…次はどこへ行こうかなぁ。
参考文献
https://www.pref.miyagi.jp/documents/17564/12398.pdf