カオスですべった
医療系の研究施設で働いている。異動を繰り返しているから、経験だけは豊富だ。職場で負けることはないだろう。とはいえ役職は下っ端だ。いいポジションである。けれども周りは許してくれない。警戒もされるのだ。
避けられてるわけではないが、よそよそしいのである。あとから分かったことだが、最初は本社からのスパイと思われていたらしい。そもそも、僕の前の仕事場は、研究組トップの事業所だ。僕らブルーワーカー組は、そこで働く人達とは接点がない。出会うはずがないのである。そんなところから来た僕との接し方も分からなかったということだ。
だが、そんな状態はいつまでも続かない。1ヶ月もすれば、僕が仕事熱心でない事も周りに伝わる。僕の過去の逸話も、ためになる経験談ではなく、笑いの種になるエピソードというわけだ。
だが、リーダーだけは違った。彼は真面目な人だ。役割を全うするために一所懸命。故にいつも悩んでいる。仔羊のような人だ。そんな羊リーダーは僕にもあれこれ聞いてくる。僕にそこまでのスキルは無いのにだ。だが僕も真面目に応える。そうさせる力が彼にはあった。
聞けば抱えている問題も深刻だった。どうやら施設のオーナーと利用者の板挟みになっているらしい。どちらも責任の線引きが強く、小さな課題でも上手くいかないらしい。一番めんどくさいパターンである。
根本的な原因は仕事に対する熱量の違いだろう。どんな問題でも取り組む人達の熱量が高ければなんとかなるものである。逆に熱量が低いと些細なことでも解決が難しくなる。こうなるとお手上げ。雇われの身が対処できる方法といえば、熱量を下げて合わせることしか出来ないのである。
羊リーダーは真面目な人だ。熱量を下げることは難しいらしい。故に僕は聞き役になることにした。彼が役から開放されるまでそばにいる。それくらいしかできなかった。
だが羊リーダーの悩みはそれだけではない。部下の士気をもう少し上げたいとも言っていた。自主性がもう少し欲しいのだろう。それなら力になれると思い、冗談半分で提案してみた。
『講義してみますか?』。予想よりも食いついてくれた。是非やりましょう、と。さて、どんな講義にするか。ここでの目的は知識の分配ではない。士気の向上だ。簡単なことを難しそうな理屈と横文字を使って伝えることが正解であろう。
もちろん伝わらなければならないが、それも簡単と思われる。最後の一文だけで理解できる講義内容にすればいいのだ。僕は資料を作って本番に臨んだ。内容は以下の通りである。
そもそも試験でいちばん大切なのは『再現性』だ。同じ試験をしても、違う結果が出たら、信用はできない。同じ試験をしたら、同じ結果になることが望ましい。故に実験動物にも均一に健康でいてもらうのである。
だがしかし、動物は生き物だ。その仕組も複雑である。カオスも生まれるであろう。つまり、小さな違いが時が経つにつれて大きくなるのだ。初期値鋭敏性が発現する。バタフライ効果と呼ばれているものだ。日本風に言えば『風が吹けば桶屋が儲かる』なのである。
僕らは実験動物技術者だ。敵は微生物。そう言われているが、実のところカオスもまた倒すべき敵なのだ。『マニュアル』ではなく『標準操作手順書』なのもそのため。手抜きはもちろん、プラスαも許されない。きっちりと指示通りに動く必要があるわけだ。
手応えはなかった。すべったのである。もちろん質問もない。感想もあるわけがない。仲の良い者がすこしだけ触れてくれた。その優しさが悲しかった。羊リーダーは絶賛してくれたが、次回は無いと思う。僕の心が持たない。なにより皆の士気は上がらなかったからである。
仕事って難しい。熱量のコントロールが出来ていない。すべるのも納得だ。やり方を間違っていた。けれども正解の方法は見当もつかない。どうやら僕は変わっているみたいだ。とりあえず、周りの者の観察からはじめてみたいと思う。