写真にメッセージは必要か
医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。今の事業所は10ヶ所目。この地は寺社仏閣が多い。写真をライフワークにしている僕にとっては、被写体が溢れる地として魅力的に映っている。故に拝観料は惜しまない。おかげで細かくこの地の寺社仏閣を周れたのだった。
とはいえ写真を撮るだけで終わりにはしない。お参りはもちろん、賽銭も投げてくる。予習も欠かさない。簡単な時代背景や建立までの物語も、調べられる範囲で頭に入れておくことにしている。その方が楽しめるからだ。少なからず写真にもいい影響をもたらしていると思う。
だからといって、それを伝えたいメッセージとはしていない。あくまでも写真を作る際の情報として知っておきたいだけだ。そもそも、僕は伝えたいメッセージの媒体として写真を撮っているわけだはない。何かを伝えたければ、テキストや音声の方が遥かに伝わりやすいであろう。僕が写真を見て『いい』と思えられれば、それだけでいいのである。
もちろん写真を創るロジックは持っている。それをメッセージにすることも可能だ。僕のロジックが正しければ、有意義なものにもなるだろう。一般に解けないとされている問いも、解けるかもしれないからだ。
けれどもそれはしない。僕の役割ではないだろう。伝えたい気持ちが無いと言えば嘘になるが、僕が無理にすることはないと思っている。伝えることが上手い人がやればいい。僕はそれを利用して写真を作るくらいが丁度いいと思っている。
『世界はこんな感じで動いているのだろう』。そこから眺める世界は新鮮だ。田舎者が都会の摩天楼に感じるものと同じだろう。それが色濃く出ている場所を撮ればいい。さすれば不思議と僕は美しいと思えるのだ。
『表現の自由』がそこにはある。この言葉には2つの意味があるのかもしれない。ひとつは規制やタブーに縛られない自由。自己の思想を表現する自由だ。もうひとつは枠にとらわれない自由。写真というフォーマットに紐ついたセオリーや固定観念に縛られない表現方法の自由だ。僕は後者の方を意識している。
写真は自己表現のツールとしても魅力的だと思う。けれども僕は写真の表現方法を追求する方に心を奪われている。表現方法を工夫するだけで、美しさで測るライン上にないものまでも、そう感じることができる。僕の追いかけている『僕の思う最高の1枚』とはそんな写真だろう。
僕は僕のために撮っている。けれども僕ではない人が僕の写真を見ても、少なからず美しいと感じるかもしれない。写真によっては違和感を覚えるだろう。「これを美しいと言ってもいいのだろうか」。そんな問いも生まれると思う。仮に僕の写真にメッセージがあるとしたら、その問い自体がそうだと思うのである。