バスキアの絵が高い理由を知れた

アートを誤解していた。抽象的な非言語でメッセージを送る。テキストの方が伝わりやすいのに。そう思っていた。けれども違った。アートは科学だ。表現方法の探求がそこにある。『なにを伝えるか』ではない。重要なことは『どう表現するか』。そうとは知らずに、僕はアートを避けていた節がある。勉強不足であった。

そう考えるとアートはおもしろい。僕は書籍を1冊購入した。かなり分厚い。武器を通り越して漬物石のようだ。前半1/3は熟読。残りは飛ばし読み。けれどもアートが科学なことは確かめられたのである。

古代エジプトの絵画で、描かれた人物は一様に横顔だ。おかしな点も複数ある。けれども、その理由も分かった。描いたものが"人と認識できるもの"である必要があったからだ。

写真もそうだが、絵画は不思議だ。そこには無いのに、有ると錯覚してしまう。白紙のメモ帳を破ることは簡単だが、親しい人が描かれたメモ帳は、破ることに抵抗を感じる。古代の人々は、これを魔術の一種と捉えたのであろう。故に人を描いたものは"人と認識できるもの"である必要があったというわけだ。

胴体に頭は1つ、手足は2本づつ。顔のパーツは目鼻耳口。手足の指は5本づつ。それら外見的特徴を網羅して描かれた"人"が古代エジプトの絵画だ。おそらく、当時の最先端な研究成果だったのであろう。

そこへいくと、モナリザの発表は衝撃的だったと思う。いや、凄すぎて時代が追いついていなかったのだろう。評価されたのが作者であるダビンチの没後のことだ。それくらいに突出した出来事だったのかもしれない。

人の像にリアルを求めた結果、解剖学の知識をもってアプローチした。つまりは対象の本質を知ることからはじめたのだ。作品を見れば、この方法が優れていることは誰が見てもわかる。だが、この方法が優秀なのは絵画に限ったことではない。他分野でも応用されている。現代では基本的なアプローチ方法と言えるだろう。だが、当時は画期的であった。モナリザの魅力とはその部分であろう。

とはいえ、その研究成果は絵からは伝わりにくい。説明文が必要だ。だが、分かりやすいアートもある。葛飾北斎の絵もそのひとつではなかろうか。雨の表現である。いくつもの『線』で表したのだ。これも当時、画期的だったようだ。

つまるところ、アートとは美術史であり、表現方法の探求の歴史であった。もちろん、なにかを伝える作品もアートなのだが、僕は『どう表現するか』という問いに対するアートの方が好きだと思えた。そして高額な価値が付くアートもこちらの様だった。

だからといってアート自体の価値が高いわけではないと思う。これはお金に似ているのだ。そのものの価値以上に、多くの者の共同幻想の上に立つ信用が高額な価値を支えているのだろう。アートは各国の通貨発行権を越えたところに存在する超高額紙幣。それが富裕層の資産管理に丁度良かったというわけだ。

その価値を担保しているのは、なにも大勢の人ではない。一部のコミュニティで維持されている権威で保たれているのだろう。これは悪いことではないと思う。飲食店におけるミシュランガイドみたいなものだ。『アート村』と言ってもいいのかもしれない。

アートで有名になりたければ、アート村で作品を発表しなくてはいけない。インターネット上で発表していても駄目なのだ。youtubeで渾身の動画を公開しても、有名な映画祭からオファーが来ないことと同じだ。いつまでたってもアカデミー賞は取れないだろう。動画の良し悪しに関係なくだ。

そう考えるとバスキヤの凄さも理解できる。彼もアート村で作品を発表していた。だが、自分のスタイルは崩さなかった。グラフィティ・アートをモチーフにした作風。それは『路上の落書き』の様式を取り入れた作品だった。音楽で言えばクラシックコンサートでR&Bを披露して絶賛されるようなものである。

アート村に違う文化を持ち込み、村民をうならせた。それがバスキヤの凄さだろう。それは日本の村上隆さんにも言えることだ。彼は日本のオタク文化をアート村へ持ち込んだ。漫画やアニメに慣れ親しんだ日本人にとっては、特に何かを感じることも少ない作風だが、海外の村民には新鮮だったのだろう。

僕の考察も含まれてはいるが、美術史やアート全般については、こんな認識でいいのではなかろうか。アートは科学。なによりそれを知れてよかった。僕の写真には伝えたいものが無かったからだ。ずっと『どう表現するか』を探求していたが、それでいいみたいだ。すこし背筋が伸びた気がする。

僕の表現方法は単純だ。美しいと思った被写体を撮っている。だが、その被写体を美しいと思えるように視点や視座は変えている。その視点で被写体の本質を眺めるのだ。『世界は人が絶望するほどシンプルで美しい』とは、そこからの景色だ。自身の視点や視座を変えて撮影することは、僕にとって最高の表現方法なのである。

そうして撮った『きのこ写真』。「おいしそう」とか「かわいい」の言葉はよく頂く。けれども「理由は分からないけど何故か惹かれます」といったニュアンスの言葉も過去に数件は頂いた。僕の表現も、少なからず人には届くらしい。やはり僕も人の子だ。それが予想以上に嬉しかったのである。


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