応用してみたい
僕の写真は表現方法の探求の結果だ。どう撮れば納得できる1枚を作ることが出来るのか。以前はいい被写体を適切に撮れば叶うと思っていた。当時の僕はサラリーマン。頻繁に異動願いを出すことでそれを可能にした。けれども違っていた。いい被写体を選んでも、いい写真になるとは限らなかったのである。
被写体はなんでもいい。景色でも、石でも、きのこでも。農家となって定住したが、これは正解だった。毎日撮れる。思慮を深めながらトレーニングにもなった。おそらく、納得の1枚にも近づいていることだろう。
簡単なことだった。被写体を変えるのではなく、こちらが変わればよいのである。難しいことではない。たとえば田舎の景色。都会に暮らしている者から見れば絶景だろう。だが、その田舎に暮らしている者が見ても心は動かない。逆も然りだ。田舎者の僕は都会に出ると、高層ビルや車の多い多車線の道路に心を奪われる。つまりは、撮り手の視座によって”もの”の見方は変わるというわけだ。ならば、撮り手の視座を変えて行けばいいのである。
それも簡単なことだ。固定観念を外せばいい。どうせなら一番に強いものを外した方がいいだろう。僕はすべての人が共有しているであろう観念を外してみた。それはそんなに大層なものでもない。天動説から地動説に変えるくらいだ。発見したり証明することは難しいが、そのロジックなら小学生でも理解が出来る。世界の中心を自分達から離せばいいだけなのだ。
こうして僕の写真は、またすこし理想に近づいた。きのこや景色、落葉に石ころ、ときには自身の作った料理も写真に収めた。端から見れば節操なく見えるだろう。だがしかし、僕はいつも同じものを撮っている。そう言えるのも固定観念を外したおかげだ。誰かに伝わらなくてもいい。僕だけが分かっていればいいのだ。
とはいえ、誰かに伝えたい気持ちはある。写真だけではない。僕が利用している固定観念を外した視座そのものをだ。割と応用が利く。問いを解けるとは言わないが、真新しい仮説を立てるぐらいは可能だ。メタ認知の幅は増えるだろう。それによって納得できることも多い。争いを防ぐことも可能だ。自身の行動力も変えることが出来るだろう。多用は無理だが、ここ一番のときには僕も使っている。未だ不得意に屈してないのはこのためだ。悪用も出来てしまうくらい有用だと思っている。
美術は表現方法の研究と言われている。以前は分かりやすい研究対象が多くあった。現代の基礎的な表現方法がそれにあたる。だが、それらも研究され尽くした。それでも人の研究は止まらない。故に現代では一般からは分かり難い研究も進められている。
それは科学でも同じだ。一見すると意味の無いと思える研究課題も多い。だが、それこそが大事なのだ。基礎研究。そう言われている。その成果があるからこそ、応用研究があり、商業研究に繋がっていく。そして我々の生活が豊かになるわけだ。
現代美術が分かり難いのも、それが基礎研究にあたるからかもしれない。僕の写真もカテゴライズすれば現代美術に入るだろう。つまりは基礎研究の結果なのだ。それでは人に伝わり難いであろう。本当に伝えたいのであれば、応用研究もすすめて、商業的に人の役に立たせた方がいいのである。
それは僕の写真を飾ることではないはずだ。とはいえ、自己啓発的な文言を発信することも違うと思う。コンサルタント的なことも然りだ。そもそも、僕の表現方法で解決できる社会的な課題はあるのだろうか。しばらくはそれを考えながらきのこを撮ってみたいのである。