パントマイムで作る境界線

医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。今の事業所は11ヶ所目。人口の多い都会で暮らしている。趣味の写真は、もはやライフワーク。もっぱら風景を撮っているが、それ以外もよく撮る。人は撮らないのでポートレーターではない。三脚を立てたりグラブショットがメインだから、スナッパーでもないと思う。

『なに撮ってるんですか?』。この質問が一番困る。僕もよく分からないからだ。故に仕事場ではあまり写真の話はしないことにしている。それでも話してしまったときには『風景』と答えている。一番無難であり嘘でもないからだ。

自然物と人工物。これらは対比して語られることが多い。被写体としての優劣を付けられることもあるだろう。その気持ちは僕も分かる。その間には境界線をも感じるからだ。けれども違和感も感じる。本質的には境界線も存在しないと考えているからだ。

『感じる』と『存在する』は違うと思う。僕は真っ暗が怖い。お化けが出るかもと感じるからだ。だが、お化けの存在は信じていない。信じていないが怖いのだ。そう感じることに理屈はない。信じていなくても、怖いものは怖いのだ。

自然物と人工物の境界線もそう。山の写真と摩天楼の写真を区分けするときに迷いはない。けれども写真を撮るときのロジック的には境界線も消えている。すべてが自然物に見えているからだ。その視座から眺めると、人の思う境界線は、パントマイム的に造られたものに見える。

無い物を、有ると仮定して振舞うと、そこに有ると錯覚する。見えない壁も、触れたり壊したりする”振り”をするだけで、あたかも存在するかのような透明な壁が出現するのだ。裸の王様もそうだろう。全員が見えると言えば、そこに服は存在する。仮想通貨もそうかもしれない。金貨や紙幣をシミュレートするのではなく、それの出納を管理する”台帳”をシミュレートすることで、そこに通貨があると錯覚させているのだ。

自然物と人工物の境界線は、大多数の人が参加するパントマイムで存在を維持しているのだろう。壊そうとしたり、守ろうとすることで、その境界線の輪郭は太くなる。『自然の驚異に恐怖する』。そんな言葉もおこがましく感じとれるのである。

僕は都会の写真を撮った。巨大な駅のターミナル。駅と駅を繋ぐ連絡路。車線に跨る横断歩道。どれも都会のそれが写しだされた写真だが、見方を変えれば自然風景に見えるもの。

物理法則が支配する世界の中で、生物は特別な存在ではない。しっかりと理の鎖で縛られている。狭い視野で眺めれば逆行する存在にも見えるが、広い視野で眺めれば、原始からはじまった揺らぎの一部でしかない。山も、海も、人も、ビルも、同じカテゴリの”もの”だと思うのだ。

写真はおもしろい。あとから冷静に景色を楽しむことができるからだ。裸眼とファインダー越しの世界が違うように、ファインダー越しと写真の世界は違う。僕は写真で見る世界が一番好きだ。そう強く思わせる写真が『僕の思う最高の1枚』なのかもしれない。

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