写真の純度を上げていきたい
医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。今の暮らしの拠点は北海道。写真好きの僕からしてみれば、願ってもない勤務と思っている。『僕の思う最高の1枚』。それを目標に撮り続けているが、北海道に来てからというもの、未だに観光気分が消えない。これは仕方のないことだ。故に今は飽きるまで遊び尽くすことを目標にしている。
先日は『三笠鉄道村』へ行ってきた。やはり鉄道はいい。撮りたくなる被写体だ。構図作りも楽しい。屋外に展示されていた車両のステップ部分を撮った。これもお気に入りの1枚になるだろう。説明がなければ鉄道車両と分からない写真だが、何かいいのである。
僕は写真の何に惹かれているのか。この問いに対する答えは、なんとなくだが分かってきた。秩序の淡い部分である。そこから世界の理のようなものを感じ取っているのだろう。
けれども、なぜそこに惹かれているのかは分からない。写真に惹かれているのか。それとも写真に映っている被写体に惹かれているのか。それすらも分からないのである。
そもそも『写真を見る』という動作は2種類あると思う。文字通り写真自体を見る行為と、写真の中の被写体を見るという行為だ。前者は意識的に見る必要がある。慣れてくれば無意識に見られるかもしれないが、一般的には後者のように写真の中の被写体を見てしまう。
そして脳の認識も後者だと思う。写真を見たことによる反応は、実物の被写体を見たときとほぼ同じだからだ。いい景色の写真は「いい景色」。おいしそうな料理の写真は「美味しそう」。残虐な写真はからは目を背けたくなる。写真と分かっていても、実物と同じ反応をしてしまうのだ。
脳は実物と写真の区別を付けられないのではなかろうか。考えても見れば写真が発明されてから、まだ200年くらいしか経っていない。絵画が生まれてからはおよそ4.4万年。 そこへいくと人の歴史は約30万年と言われ、人属としては200万年の歴史がある。つまり人は実物と写真の区別をできるほどの進化はしていないとも考えられるわけだ。
脳は映像を解体した状態で記憶していると言われている。一方で写真は撮ることを「切り取る」と表現されることも多い。それは景色の解体とも言い表せられる。すなわち脳が行う映像の解体を、写真ではすでに部分的に行われているのだ。
そして記憶した映像が必要になったとき、脳はその映像を再構築する。そのときに必要な断片化された映像には実物か写真か否かのデータは紐ついていない可能性が高い。そう考えれば写真由来の記憶の入出は不可逆的であり、故に実物と写真の区別は出来ないと推測できるわけだ。
そうであれば、写真とは眼から摂取する薬という意味で『経眼薬』とも言い表せられるかもしれない。実際の景色を見ることなく、疑似的にその景色を見たときと同じ反応を得られるからだ。
仮に写真を経眼薬と考えたとき、その製造方法にも共通項を見出すことができる。絵画はゼロから作り出すという意味で『合成薬』と言えるだろう。一方で写真は自然素材から精製された『生薬』と言える。その精製方法は、不要なものを取り除き、必要なものを際立たせる。そして吸収および残りやすいように調整する。それらは「良いとされる写真」の作成方法と類似しているのだ。
もしもそうであるならば、僕は写真の中の被写体に惹かれていることになる。実物の被写体以上にだ。それは写真からしか得られないものだろう。つまり被写体に惹かれつつ、写真にも惹かれているということだ。
またすこし『僕の思う最高の1枚』に近づけたのかもしれない。先日は余市にあるウイスキー工場にも行ってみた。写真も多く撮れたが、この日のお気に入りは道中で撮った海の写真であった。
透明度の高い海に惹かれて撮った1枚であったが、実際の景色よりも写真の方が美しかった。余計なものを排除できたからだと思う。心に響く要素の純度が高かったのだろう。
だが、まだまだ精製できる余地はあった。もっと純度を上げられると思う。僕の写真の腕はまだまだだったというわけだ。もっと上を目指したい。そのためにはもっと撮らなければならないだろう。僕の写真は止まらないのである。