「あそび」って?
四十を迎えた去年あたりから「哲学対話」に興味を持ち始めた。
きっかけは去年、『水中の哲学者たち』(著:永井玲衣)を読んで。その中で出てくる「手のひらサイズの哲学」という考え方がスッと心におちた。「哲学」はそんなに高尚なものではない、日常生活の中でふと疑問に思った些細なこと(問い)について考えること、それが「哲学」であると。それなら普段私が色々考えているしょーもない(考えてもどうしようもない)ことは「哲学」になるのかなぁ、なんて思ったりした。それを他者との対話で色んな発見をしながら深めていくのが、哲学対話。
そんな中、今年9月にいつも参加しているヒョーゲンアソビノバのこどもワークショップで『ちいさなてつがくのじかん』というイベントがあった。これは面白そうだと思い、息子と妻を巻き込んで初めて「哲学対話」に参加してみた。
私は面白かった。しかし、息子と妻は指名されてその場ですぐさま考えを述べるということが苦手だったため、次回は参加したくないとのことだった…。
そして、今回11月に開催された第2回目(?)の『ちいさなてつがくのじかん』。幸いにも主催者様から「親だけでも参加OKですよ」といただき、アウェイながらも私だけ親一人で参加させていただいた。
以下が今回の本題。
テーマは、「あそび」って?
場所はコミュニティセンターの和室。
始まる前から4〜10歳くらいのこどもたち(10人ほど)がワチャワチャと走り回っている。これはどう見ても落ち着いて対話できるような状態ではない…。そこでキュレーターの先生は、こどもたちの誰かがあそびのリーダーになるように促す。そのリーダーのやることに従って、大人もこどももみんなであそんでみようと。
アイスブレイクも含め、大人がこどもの「あそび」を体感する。
リーダーのこどもは入れ替わり立ち替わり、こどもたちの即興ルールのもと、大人たちは謎のポーズや謎の動きをやらされ、大きな筋肉が悲鳴をあげる。
10〜15分ほどあそび、一通り気が済んだ(?)こどもたちは、やっと対話ができそうな状態に。
みんなで輪になって座る。
まず「あそび」ってどんなことかな?と、先生がこどもたちに問いかける。
こどもたちは少し考えて答える。
・すこしべんきょうになること
・みんなでしりとりすること
・楽しいこと
・かんさつすること
・かいらく(快楽)←
などなど。
小学4年生くらいの男の子の「快楽」という回答には、度肝を抜かれた。
よくよく聞くとゲームで勝った時の快感を得ることがあそびだと言う。
なるほど…。
次に先生も含め、大人(親)が「あそび」について思ったことを話す。
(※以下は対話の中で出てきた印象的なキーワードをもとに、私がモヤモヤ考えたことを記す。)
私はこう話した。
冒頭のこどもたちの「あそび」を体感して思ったことは、大人にはあんな「あそび」を瞬時に生み出せないということ。しかもその即興ルールがアナーキーで滅茶苦茶なのに、こどもたちの間では謎の秩序がうまく機能していて「あそび」が成立している。それがすごい。たぶんこどもの頃、自分もそれが出来ていたはずなのに、大人になるにつれ、いつの頃からか自然と出来なくなってしまった、と。
大人たちはうんうんと頷いてくれた。
ある親は「あそび」は疲れる、という。
こどものごっこあそびで、こどもの指示どおりにセリフを喋る。こどもの気が済むまで永遠に同じことを繰り返すなど…。それが疲れる、と。
たしかにこどもの「あそび」は、大人にとってそういう「精神的な疲れ」もあるが、冒頭のあそびタイムでは「体力的な疲れ」もあった。
ということは、大人にとってこどもの「あそび」とは、心身ともにただ疲弊するだけのものなのか…?
思うに、こどもの「あそび」を大人が精神的にキツいと感じる理由は、こどもルールの縛りがある上、「自分のため」ではなく「こどものため」という自分軸のズレがあるからではないだろうか。
こどものご機嫌を取らないといけない。マイペースに出来ない。単純に自分が楽しめない。そこに疲れる。
こどもたちがゼェゼェと息を切らしながらも走り回り続けることができるのは、彼らの「あそび」には、精神が肉体を凌駕するほどの「楽しさ」があるからだろう。
最初に4歳くらいのこどもが言ってた
「あそび」は「楽しいこと」という意見は
まさにその通り。
宇宙からポッと出た言葉だ。
大人の世界にも「あそび」がある、という意見もあった。でもそれは誰かから「あいつはあそんでいる」みたいなことを言われ、だらし無く、秩序を乱すみたいなニュアンスが含まれている気がするという。
こどもの「あそび」と大人の「あそび」にはどこかズレがあるように思える。
私のイメージでは大人の「あそび」には、どことなくお金の臭いがする。呑んだり、美味しいものを食べに行ったり、ショッピングやスポーツやアートなど趣味に興じたり。何かしらの社会的タガやハメを外す、これらの「あそび」にはいわゆる「娯楽」のイメージがある。
ストレスと金をためこんで(仕事をして)、アフターワークや休日にそれらを娯楽(あそび)に散らす。従順に資本主義社会の促進に貢献する優等生集団という感じ。こどもたちは、その支配下の教育で徐々に毒を盛られ、無意識にオリジナルの「あそび」を染み抜きされ、大人の「あそび」に染められ、社会へ投入される。『あそび』という字面(フォルム)はそのままで。
仕事中に「あそび(娯楽)」が目につくようであれば、それは「あいつはあそんでいる」となるし、ましてやこどもの「あそび」に至っては、社会においては意味不明で経済効果を生み出さない全く価値がないものとされてしまう。大人たちが純粋にこどものようにあそび始めれば、幼稚どころではなく、変な人とみなされ、果ては通報されるかもしれない。
こどもの「あそび」には目的がない。
主催者の方が挙手してそう仰った。
社会が合目的であることと連動して、大人の「あそび」には目的がある。
「私の期待に応えてくれ」
「私を楽しませてくれ」
金銭を支払う「あそび(娯楽)」には、それに見合う対価を求めようとする明確な目的がある。
しかし、こどもの「あそび」には目的がない。ただ楽しむだけ。
なぜそんなに笑えるのか、なぜそんなに疲れているのに走り続けることができるのか、大人には理解できない。それも相まって、こどもの「あそび」は、大人の心身を疲労させる。「こどもが苦手」という大人がいるのも、この世の社会性に要因があると思える。
これは思い当たる節があるが、こどもの頃は普通に「あそぼう!」と言っていたが、大人になってからは「あそぼう!」とは言わなくなった。まず「あそぼう」って何?となる。むしろ大人が「あそばない?」なんて言うと「女あそび」などを筆頭に何か社会的に、倫理的にやってはいけないことのようにさえ思えてしまう。
あそんではいけない。
あそびは公序良俗・TPOをわきまえ、適切に行う。
あそびは「娯楽」である。
無意識にこの感覚に制御されることこそ、まさに資本主義、合目至上主義に染め上げられた証だろう。
キュレーターの先生は、こどもの「あそび」にはドキドキがあると言う。
冒頭の予測不能でアナーキーなこどもの「あそび」からそう思ったと言う。大人は安全な所に居ようとする。つまりドキドキすること(不安要素)を避ける。でもまだ世の中の現象や色々な決まり事を知らないこどもは、そんなことはお構いなし。
そういえば、ある冬の朝、息子(当時3歳)が起きて、外が真っ暗だったことに大泣きしたことがあった。朝なのになぜ太陽がないのか。たったそれだけのことで感情が激しく揺さぶられる。それがこどもの世界。
自然現象も社会的常識もこどもにとっちゃ知ったこっちゃない。だからこどもたちは、大人や世間が危険だということも平気でやってのける。それこそが「あそび」だ。朝から晩まであそんで、あちこちに傷をつくる。死さえ恐れない彼らは全身がドキドキの塊だ。
そしてドキドキの塊とは、つまり「生きている」ということ、「生そのもの」だと思う。
これは私の勝手な想像だが、かつてこどもだった大人は、やはりどこかでドキドキしたいと思っているのではないか。
人間社会に染み抜きされたとはいえ、あの宇宙由来の『あそび』の刻印が日々の生活の中でウズウズしていると思う。
知らずのうちにあれよあれよと社会に身を投じられ、世の中が分かったかのような錯覚に陥り、好奇心が薄れ、ドキドキが次第に減り、心拍測定器の波形が水平になるかの如く、爆誕したはずのあの幼き宇宙が閉塞していく。日々の暮らしに、自分の好奇心が揺さぶられること(ワクワク)や生命感が溢れること(ドキドキ)がなければ、おそらく人は死んでしまう(死んでるように生きることになる)。それを無意識に回避し、バランスを保つために、「あそび」(ドキドキ)があるのだと思う。ボルトを締めるときに、締める側の穴に「あそび」が必要なのと同じように。
しかしながら、社会で誰かから用意された「あそび(娯楽)」の受動だけでは、この深刻な枯渇は潤わない。私たちはこどもの「あそび」、つまり「舗装されていない獣道を、好奇心というクリスタルを胸に勇ましく進むこと」をどこかで欲している。
これは息を吸って吐くという感覚に等しい。現代社会を生きる大人の世界は、吸い続けているか、吐き続けているか、過呼吸気味で、死にそうになっているような気がする。
本当に「生きたい」。
世の中の全てが分かったかのような日々は、川上の激流の如く時間が早く過ぎていく。収束への牢獄。
しかし人間という生き物は、思考できるが故に、本能的にどうしても本当に「生きている時間」、つまり「生」を実感したい生きものなんだろうと思う。
DIY・断捨離・マインドフルネス・パワースポット…近年見られるこれらの動きは、これまでの社会体制への反動であり、こどもの「あそび」への原点回帰のわずかな兆しではないかと思えたりする。それさえも資本主義というモンスターはビジネスにしようとし、大人を自分たちの世界に引きずり込もうとするわけだが。
終盤に、人は死ぬまでこども、という意見があった。
そう、大人はかつて、誰もがこどもだった。
もしかしてとは思うが、大人は仕事にかこつけて、ただ「あそび」たいだけじゃないのか?と思ったりする。社会には色々な職業があり、自身の好奇心を方位磁針に生業を選ぶ。ずうたいがデカくなっても、あの頃みたいに「あそび」たいだけ。
このワークショップに参加した親も私も、こどもにかこつけて、自分が哲学して「あそび」たいだけなのかもしれない。
こどもの「あそび」には目的がない。
哲学対話にもゴールはない。
あそぶために生きている。
生命感を味わいたい。
いつまでも、死ぬ間際まで、ドキドキ、ワクワクしていたい。
そうであれば、生きる「目的」なんてそもそも必要ない(強いて「目的」をあげるならば、ドキドキすること)。今を生きているその実感こそが楽しい。それを感じることができるのがこどもの「あそび」なのだが、社会にしっかり侵された大人(社会的優等生)にはそれが苦しく感じる。しかし、その「苦しさ」を感じることこそ、元来の「あそび」に触れ、本来の調子を整えることなのかもしれない。漢方が苦(にが)いように。
それが認められない世界。
それが今私が生きている「社会」なのかもしれない。何か社会的な価値がないと、社会を生きる者として、人として、認められない。
反社、社会不適合、発達障害…etc、何かしら問題あり気なネームでカテゴライズされ、あの頃の教室のように、都合の悪い奴としてこの世からハブられる。
最後は冒頭と同じように、こどもたちの破茶滅茶ルールであそんで、この日の哲学対話は終了した。
帰り道、対話のことを振り返っていると、こどもに対する大人たちの「子育て」という社会的な態度は、どこかおこがましくも思えてきた。
こどもが生まれ、親になり、こどもと対峙するということ。
こどもを「宇宙の使者」と捉えるとすれば、それは本当に人生最後の機会なんだろうなと思う。
息子は時折、無邪気に私にこう問う。
後者を選択すれば、もし近い将来、息子が社会の深い渦に引きずり込まれたとしても、私は彼のトンネルの光になれるのかもしれないな。