わたしのスクラップノート2大庭みな子/中山あい子

こちらのシリーズです!延々と個人的なスクラップをまとめておくための場所。

お二人とも戦前生まれの方だが、凛として潔くて、読むだけで、すうっと流れていくようで、そっと傍に置いておきたい文章。
では、どうぞ〜。



男と女ははっきりと異質のものであると思い込むのはあまりよくない。
女とは、あるいは男とはこういうものだと思い込んで描いてる人物は、きまって退屈でぼやけた性格である。
男と女は本質的には同じものだと考えるほうが、男と女は全く異質のものだと思い込むよりははるかに間違いが少ない。
大切なことは、それぞれの異なった情況を正確に把握することなのだ。
ある人物の情況を綿密に分析すれば、その行為や思考方法は自然に導き出されることが多い。
それはそれとして、日常生活を愉しくするためには、こうした七面倒臭い観察はあまりしない方がよい、と考えている。
それに今まで言ったようなこととは全く正反対に、素朴にぼんやりとものごとを受け止める感性がなくなってしまったら、それこそ終わりだ、とも思っている。
ひとつのやり方にこりかたまるのはどっちにしろ世界を狭くする。
ひとつの方法を信じ込むのは危険である。
そこでわたしは阿保のようにぽかんと口を開けて、ため息をつきながら高い建物を見上げるように男なるものを見あげて、ひたすら恐れ入って賛美しているのが毎日である。
多くの場合、その人間の美しさを引き出すのは異性の力によることが多い。


大庭みな子著『野草の夢』より


一人で何気なくいて、男が欲しいというのは色気違いである。
恋する男がいて、傍にいる女が、苛立つというのならよくわかるが、そうした心の当てのない女が色めきたつ道理はない。
世の中は変わった。自由に生きていいのだ、と誰もが言う。あれはみんな間違いだとも言われた。そう言う混乱も自分なりに自分の中で整理して、私はようやく、一人立ちの精神をつかんだ。
別にそう息も耐えるほど惚れた男ではない。
妻と呼ばれ、夫と呼ぶ習慣に染まったに過ぎない。
幸い状況が変わった。私は解放されたのだ、と思った。
冗談、二度とあの慣習に屈服しないよ。
「あなた生き生きしている」よく古い友達に会うと言われた。
理想的な女の独立というのは、ともかく一度結婚をして、夫と別れてからの方がうまくゆくような気もするし、結婚の実態の中からつかんだものが、それから女一人の生に力を与えるわけで、どう惨めな結婚だろうと、それを知ったことを実りに変えてゆく作業が女には出来る。
それが出来ないと思うからおたついて、悪い亭主の傍を逃げることが出来ないのだ。
厭な夫、粗野な亭主、そんな男に一生ひっついて泣く女の気が知れない。
女一人、何やったって生きられる。
だって、一人で生きれば、楽に暮らせる女が、亭主の少ない稼ぎを待ってうだうだ文句たらたら傍に居続けるなんて、銭金でないものの力がつよいとしか思えない。
むしろ、世間からあの女は別よ、という札付きになる方が楽である。
女一人、なかなか生きるに難い世の中だと言うが、何をやってもいいという気構えがなければ、難渋する。
そんなことは出来ない、そこまで落ちぶれるのは厭だ、と言う。
そして安楽な夜の街に紛れ込んで、いよいよ波瀾万丈となるのを、女たちは憧れ、許すのかもしれないが、だから駄目女と言われるのである。

女一人、男は無用と踏ん張った重さだけ、私は孤独で人恋しい時間を持て余したわけでそれは、自分の自由のためには支払うべきものであった。
だからその逆も成り立つわけで、安泰な暮らしと、家族に囲まれる安らぎのために、束縛や常識の不自由さは当然要求される。
世間なみの暮らしのなかでぬくぬくと生きながら、並はずれた自由を欲しがる図々しさは許せないし、許されない。
永い女の一人暮らしの中で、息苦しさに耐えかねて、男を愛し、溺れてみても、寂しさは倍加するだけであった。まるで孤独の味を押し付けるためのような、快楽の後味の苦さ。本当の快楽に巡り合わなかった者の口惜しい捨て科白のように、私は快楽を捨てた。女一人生きてすっきりしたと思ってもいない。後悔も満足もない。私にはこの道だけがあった。


中山あい子著『生き方なんか知らないよ』



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たみい
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