
『告白』町田康/死ぬ前に本当のことをいいたい
町田康の842頁に及ぶ(分厚さでいうたら3.5センチはある、なんで上下巻にしいひんかったんやろ)長編小説『告白』をやっとこさ読めた。
長い読書が苦手なのになぜこれなのかと言うと、本作は河内音頭のスタンダードナンバーにうたいつがれる、じっさいに起きた大量殺人事件『河内十人斬り』がモチーフになっているからだ。
河内音頭は大変愉快で楽しい踊りで、初めて踊った時は「なんやこれ、サルサみたいやん、たのしーー」と狂喜した。頭空っぽになれるんが最高や。
その河内音頭がモチーフという薄いきっかけだけで、うっかり手を出してしまったが、その分厚い文庫を目の前に絶望したし持ってるだけで腕疲れるし時代もんやし熊太郎とか駒太郎とか名前だけで全然入っていかれへんし最初数ページしか進まなかった。読み切れる自信がゼロだったが河内言葉の下世話さに妙な親近感を抱いて、なぜ熊太郎と弥五郎は大量殺人を起こすことになったのか、を知りたい、という好奇心だけで読み進めた。こう言ったテーマは重い空気に包まれがちだが、不思議なことに本作を読み進めていくうちにまるで近松門左衛門の描くだめ男の世界を観劇してる気分になってくる。ほんまに熊太郎はあほでだめ男やなあ、いうて、人間味の世界にずぶずぶ浸かっていく。阿呆みたいに博打に負けてピュアに恋して挙句失恋して阿呆みたいに酒飲んでボコボコにやられて金なくなってもう見てられない熊太郎なのだが、人間として生きる姿は、町田さん、よう書いてくれた、と拍手したいくらいに惹きつけるのだ。
例えば、盆踊りに興味はないが若い娘を誘いたいがために仕方なく輪の中に入る熊太郎。しかし踊っていくうちに楽しくなってしまうシーン。
ところが最初のうちはそうして半乗りみたいな状態で踊っていた熊太郎であるが、リズムというのはおもしろいもので人間をどこか別の次元に連れていく。踊るうちに熊太郎は全乗りになってきた。頭が痺れたようになり、熊太郎の身体と音楽のリズムがひとつになった。熊太郎はリズムに乗って踊っていたのだけれども、熊太郎には、自分が手足を動かすたびにリズムが変化するように思えた。或いは、身体とリズムが同時に律動しているように。
というのは熊太郎の周囲で踊っているその他の人々も同様で、熊太郎の周囲ではおっさんが盛り上がり、お婆ンが狂乱していた。ひとりびとりが個として音楽にむきあうのでなく、ひとりびとりが音楽そのもの、全体そのものになっていた。
「くわあ。ええ感じや」熊太郎はときおり唸った。
全然踊りたくなかったのに、夢中になってもうてるやんか、熊太郎。
もうここだけで熊太郎、ええやつやん、と思てしまう。
その後はっと娘のことを思い出して、近づこうとするもおっさん軍団を通り越さないといけない。なんとかして踊りながら前進しようとするのだが・・
紀州の伝さんは体勢を下げて踊っている。しかし熊太郎はほとんど田植えか草刈りに見えるくらいに姿勢を下げ、低い姿勢の伝さんのさらにその下で踊った。
足、特に両腿のあたりが激烈に痛かった。いっそ踵を地面につけ、尻をべったり下げてしまえば楽なのかも知れなかった。でもそれでは駄目だ、と熊太郎は思った。
熊太郎はこうして紀州の伝さんの下を踊りながらかいくぐることを個人的な卜占、或いは行のように感じていた。
この苦難を乗り越え、紀州の伝さんを踊りで乗りこえることができれば俺はあの娘を得る。しからずんば娘を得ず。熊太郎はそう思って歯を食いしばって耐えた。
しかし土俵入りの途中で型を忘れてくにゃくにゃにしているようなこの体勢は、きわめて辛い体勢であった。おまけに紀州の伝さんが勘違いをした。
熊太郎は傍目から見て不自然な感じにならぬように踊りながら伝さんを追い抜かそうと思っただけなのだけれども、そうして自分を抜かそうとしている熊太郎に気がついた伝さんは、熊太郎が自分にセッションを仕掛けてきたのだと思ってしまって喜んでしまったのである。
ノリノリの伝さんと、おっさんええからはよ進みたい熊太郎のセッションはかなりの見所、盆踊りのシーンだけでかなりの頁を割いているあたりに町田さんの河内音頭への熱量を感じる。時折り入る作者のツッコミも妙やしこんなかんじからどない十人斬りに持ち込むんやとずぶずぶ引き込まれ、途方に暮れた本の分厚さも気づいたら畳み掛けて終わっていた。人情もんのええ舞台見せてもろたような読後感。
そして最後に胸を苦しめるのは熊太郎の思弁的な部分について、相手に自分の思いが伝わらないもどかしさと、ほんとうのことを自分の言葉にする、ということ。
慶応三年頃、河内の百姓や百姓の小倅で熊太郎のように思弁的な人間は皆無であった。思考すなわち言葉であり、考えたことが即座となって口からだだ漏れた。その言葉たるやなにかと直截で端的な河内の百姓言葉である。
他の言動に疑問があれば、なにしてんね。と無邪気に尋ねた。
そんななかでひとり思弁的な熊太郎はその思弁を共有する者もなかったし、他のものと同様、河内弁以外の言語を持たず、いきおい内省・内向的になった。もちろんそのことを明確に自覚していたわけでなかったが、このことが熊太郎の根本の不幸であったのは間違いない。
(中略)
弥五郎はこう言ったのであった。
「わしはな、なんかお前がいつもほんまのこと言うてへんみたいなな気イすんにゃけど。口で言うてることと腹で思ってることがぜんぜんちゃうちゅうか、なんかバラバラみたいな感じすんにゃけど、そこらどやね?実際のとこ」
弥五郎にそう言われて熊太郎は咄嗟に、
「そうかあ?」
と何気ない風を装って言ったが内心では焦っていた。
弥五郎の言ったこと、すなわち、頭で思ったことが言葉にならずに自分のなかから外に出て行かないことに熊太郎は長いこと苛立ち、また、苦しんでいたが、しかし、そのことを他人に気取られることはないはずだ、と思っていた。
なぜならそうして考えが言葉にならない熊太郎を世間は阿呆もしくは変わり者として侮っていたからである。
しかし熊太郎は、あほはおのれらじゃ、と思っていた。
なぜなら熊太郎の考えが言葉にならないのは熊太郎が手持ちの言葉では表現できない込み入ったことを考えていたからで、「西洋のパンちゅうやつは、あら、うまいらしいの」とか、「今日、畠しとったら猿きよたさかいに鍬でどつきまわしたってん」とか、「豆の値エやっすいのお」みたいなことを考え喋り、そんなこと以上にこみいったことは自分の内にも外にもないと信じてる奴らに俺の考えてることが分かってたまるかあ、ど阿呆、と思っていたのである。
(中略)
熊太郎は思った。
しかし、ということは俺はいままで一度も他の人に本当のことを言わなかったということになる。ということは俺は死ぬまで一度も他の人に本当のことを言わなかったということで、それは寂しい。やはり自分でない人間に自分の実際のところ、本当のところを知っておいて欲しい。そしていま俺にとっての他人は弥五郎しかいない。となると困るのは、弥五郎は多少前後するとしてもほぼ俺と同時に死ぬ訳で、本当のことを知っている他人がこの世に居なくなってしまうということ。それでも言う意味があるとしたら、一回は本当のことを言ったという事実が残ることと、後は人間の魂が不滅だとすれば弥五郎の魂が俺の真実を保持するということ。
さて、熊太郎の中の本当のこととは、なんだったのだろう。わたしは河内音頭にあると思う。頭で考えることより身体がすべて知っている。
いいなと思ったら応援しよう!
