人権ってなんだ?
びっくりするような話を聞きました。
とある中学の夏休みの宿題に「人権作文」というのがありました。
「人権ってなんだ?」と思ったので先生に訊ねてみました。
「人権ってなんですか?」
すると先生は
「夏休みの楽しかったことを書けばいいよ」と答えたそうです。
「人権ってなんですか?」という問いに
あなたは答えられますか?
故喜多川擴氏に関する報道のあり方があまりにもひどかったことを受けてテレビ局が一斉に声明文を出しましたが、その中にも度々でてくる言葉です。
こちら↑も秀逸な記事です。
人権重視、人権尊重…といった言葉がならびますが、その「人権」って?
たぶん、ここが理解できてないから侵害が起きていても、尊重できていなくても、認識も自覚もできないのではないでしょうか。
人権とは
「わたしはわたしを大切にします」
「あなたはあなたを大切にします」
「わたしはあなたを大切にします」
「あなたはわたしを大切にします」という関係性のこと。
一人称単数と、二人称単数であれば、なんにも違和感はありません。
「そうだよね、大切なことだよね」
という合意を得るのはそう難しいことではありません。
ところが
一人称単数の「わたし」が「わたしたち」という一人称複数になり
二人称単数の「あなた」が「あなたたち」という二人称複数になり
「あの人」や「あの人たち」という三人称単数、三人称複数が出てくると
怪しくなる。
「わたしたち」をまとめている「属性」とその「差異」
「あたたたち」をまとめている「属性」をその「差異」
「あのひと」と「わたし」を隔てる「差異」や「属性」
が立ち上がって、
どちらが優れているか、
どちらが正しいか、
どちらが強いか、
を巡って序列化したり競い合ったりしはじめる。
少数であることや、経済的な弱さ、政治的な弱さ、学歴、性別、ジェンダー、国籍、人種、民族、宗教、障がい、見た目…etc.ありとあらゆる「特徴」を評価の対象にして、序列化、競争、差別がはじまるのです。
「わたしの愛する娘or息子」
であっても
同性愛や性別違和を告げた途端にその愛情や信頼関係にヒビが入るのは
「わたしたち(ヘテロセクシュアル、シスジェンダー)」と
「あなた(ホモセクシュアル、トランスジェンダー)」との間の違いが立ち上がり
その「違い」に対する「偏見」を表現するからです。
人種、国籍、宗教、民族、性別、性的指向、障がい、学歴は人それぞれ違います。個性、という違いです。どれかひとつを取って、その人の価値が決まるものではありません。そもそも其々の特徴の「差異」には優劣などありません。単なる「差異」です。直毛とくせ毛のちがい、身長の差、好きな食べ物のちがいのような「差異」です。
特徴や差異を理由に「あなたを大切にできません、しません」
「あの人orあの人たちを大切にできません、しません」
というのは、偏見であり、差別です。
これを禁止したのが、国際人権規約であり、特に子どもを保護する目的で作られたのが「子どもの権利条約」です。
日本は「子どもの権利条約」に批准している国なので、罰則規定こそありませんが守る義務があります。誰に?すべての大人に。
故喜多川擴氏が少年たちにしたことは、間違いなく犯罪です。刑法では「性犯罪」とされる犯罪です。ですが、国際条約は国内の法律より上位に来るもの。子どもの権利条約に違反しているのです。
この国際条約の保護の対象は18歳未満のすべての人。これに違反する人権侵害を長年、気づいている人もたくさんいたのに、被害を訴えても隠蔽し、裁判で認められてもなお過小評価しつづけたことに、国際社会は驚愕しているのです。
どうして「たいへんなことだ」「しっかり調査して再発を防ごう」という動きにならないのか…とっても不思議です。
不思議といいつつ、どうしてなのか、わたしなりに理由はなんとなくわかっているつもりです。
これは、権力構造の問題。
ピラミッド型の権力構造において、その権力を私利私欲で行使したい人が権力の座にいると、富や地位のおこぼれにあずかりたい人は、権力者におもねるようになります。ごきげんをとり、ちやほやし、尻拭いもします。「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」と総理大臣が口走ったために、公文書を改ざんし、自殺者が出たって、口走った総理大臣はじめ権力者を守り抜けば、出世できちゃう権力構造。レイプしたって総理大臣と仲良しならば逮捕直前でも捜査とりやめにしてもらえる。
「権力」を誰にとっても安心して住める、住みやすい世の中にするために用いるのが「民主制」のはずですが、私利私欲で多くの人の安全も安心もお金も時間もないがしろにできるのは「独裁制」や「絶対王政」。
権力者に困っていることを伝えて、世の中をより良くすることに参加できるのが、「民主制」。権力者に盾突きさえしなければ、どうにかこうにか生きる場所を与えてもらえるのが「独裁制」や「絶対王政」。
ニッポンは建前では「民主制」のはずですが、「偉い人に逆らってはいけない(逆らうと酷い目に合う)」という経験と訓練を小学校、中学校という義務教育期間を通して徹底的に叩き込まれます。
背の順
出席番号で呼ぶ
整列や前へならえなどの「基本教練(軍事教練)」
宿題という名目の残業
クラス対抗の運動会などで強要される「一致団結」や「競争心」
理不尽な校則
早期からの序列化
人権を尊重されるかわりに、人権侵害に対して麻痺させるような「訓練」を、少なくとも12年間、ほとんどの日本人が数十年にわたり受け続けてきたのが「今」なのです。
人権感覚を教育によって麻痺させたのか、
そもそも人権感覚が備わらない教育なのか、
そのへんはよくわかりませんが、
とにかく多くの日本人の「人権感覚」は狂っています。
簡単に被害者にも加害者にもなれるのは、ツイッター改め「X」で日々繰り広げられる非難中傷の嵐を見ても、学校が「いじめ」にうまく対応できないのを見ても、マスコミが強者におもねり弱者叩きに勤しむのをみても明らかです。人権感覚が狂っているからこんなことになるのであって、まともな人権感覚を備えた人が一定数いれば「それはおかしい」という声がもっと早く、大きくあがるはずなのです。
まともな人権感覚を備えた人がそれなりの割合でいても、権力構造の隠れ蓑が機能してしまえば、ジミー・サヴィルのような人が好き放題できました。それでも、死後その悪事が明るみに出ればしっかり調査され、検証され、すべての栄誉は剥奪されています(墓は撤去され、親族が相続した財産も没収)。そんなイギリスから見たら、今も大物ミュージシャンに称賛され続ける光景は「異様」としか言いようがないと思います。
死者に鞭打つとかそういうことではなく、二度と同じようなことが起きないように、権力構造そのものを見直して、「みんなのための政治」が行われる世の中にしたいです。
そのためにも、「人権感覚」を麻痺させているばあいではありません。
「子どもの人権条約」を読んで、
「わたしが子どもの頃、人権が守られていたかどうか」
を振り返り
「わたしの子どもは人権が守られているかどうか」
を検証し
わたしの言動を改め
学校や習い事などで守られていない現状があるなら改善要求し
どんどんモンスターペアレントになりましょう。
相手が「人権感覚を麻痺させる妖怪」なのですから
こっちだってモンスターになって構いません。
「わたしはわたしを大切にします」
「あなたはあなたを大切にします」
「わたしはあなたを大切にします」
「あなたはわたしを大切にします」
という人権感覚は、いつだってわたしたちの「内側」にあります。
「わたしはわたしを大切にします」という「種」がスタートだからです。
「わたしのからだ」のことを知らずに「わたしを大切に」することはできません。「包括的性教育」が人権教育といわれる所以です。
麻痺した、麻痺させられた人権感覚のかわりに、「フリーズ」することで生き延びてきた人のトラウマに出会うたびに、「よく頑張って生き延びてきました、あなたは悪くない」と思うのです。
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