doingとbeing
4月10日と11日は「たまゆら堂」にて「まくのうちセラピー」のセラピスト向けセミナーでした。時節柄ではなくいつも少人数の会で、薪ストーブのぬくもりの中、じっくり進めさせていただきました。ご参加くださったみなさん、感謝❤
10日のセラピスト向けセミナーはたまたま再受講の方ばかりということで、特別メニューにさせていただき、ポリヴェーガル理論とまくのうちセラピーのお話にも時間を使うことができました。
思い返すと、頭蓋仙骨療法に出会った2005年、わたしはまだたくさんのトラウマを抱えた状態でした。なかでも中学生のときの接骨院での体験による、施術者とふたりになり触れられることへの極度の緊張は、どんなセラピーを受けても効果が帰り道で消えてしまうか、逆効果になるような、なんとも残念なカラダの状態を固持しつづけているかのようでした。ですから、関心はあるものの、自分が変わる、自分もその手技を身に着けたくなる、身につける…ということは想像も期待もしていなかったのです。
それが、セミナーで先生のデモンストレーションのモデルとして先生に触れられたとき、内側から自分のカラダが変わるのを感じました。「変えようとしない手に触れられて変わる」。これはいったいなんだろう。好奇心にボッと火が灯った瞬間でした。
「変わる」
わたしたちは日々いろんなものと出会い、影響を受けたり、受け流したり、反発したり、して「変わる」か「変わらない」かの選択をしています。変わった結果、不快が増したら悪化といい、変わった結果、快適さが増したら改善や治癒と呼びます。悪化したままを続けるかどうか、改善した状態を続けるかどうかも、自分のカラダとときには意識が決めています。頭蓋仙骨療法のセミナーで先生に触れられて起きた変化を、わたしのカラダは受け入れ、その状態を維持し続けました。維持し続けただけではなく、さらなる改善に向けて意識も変わり始めました。自分のカラダが持っていた「治癒」に向かう力への信頼がより強くなりました。
この体験をひとりでも多くの人とわかちあえれば…という思いで今に至るのですが、どこに「軸足を置く」のかはここ2年ほどでよりくっきりしてきた感じがします。「安心」「安全」「信頼」「尊重」「共有」。なにかをする(doing)のカラダではなく、共に在る(being)のカラダで触れることで、触れられたカラダはセラピストに様々なことを「共有」することをゆるしてくれます。何を共有させてもらえるかの主導権はクライアントの側にあるのであって、セラピストの側にあるのはそれを信頼し尊重すること。ただ、きょうゆうさせてもらえたものが何のどういう現象なのかの解剖生理学的な知識がなければ名前が無いのと同じで、しっかり出会うこと、認識することができないから解剖生理を学んでおく必要があるのです。
ポリヴェーガル理論でいうところのニューロセプションが、「安全」「安心」を検出し続けてくれるワークのなかで、クライアントのカラダはセラピストの手を内へと招き入れ、「共有」することを許してくれます。セラピストはそれを「尊重」し、起きる変化を「信頼」し、起きた変化を「尊重」し、変化を起こす力を「信頼」する。それがわたしがお伝えしたい「まくのうちセラピー」。
ポリヴェーガル理論もニューロセプションも知らないうちから、何をし続けてきたのかと振り返ってみると、とにかく「安全」「安心」を感じてもらいたい、そのための身体技法、お作法を磨き続けてきたのだなぁ…と、ここ最近しみじみと感じています。
日々の暮らしのなかで「なにかをする」ことに価値を見出すことは簡単です。「なにかをする」ことはいろんな場面で求められます。「なにかをする」ことに対して評価されることはあっても「しない」ことは通常は求められもせず、評価もされません(いたずらっ子に「◯◯しないでじっとしてて」というのさえ「じっとする」ことを求めています)。「いてくれるだけでいいの」というのは赤ちゃんやペットにだけゆるされたことで、少し大きくなると「何ができるか」を評価され、「◯◯する」ことを求められるようになり、「いてくれるだけ」では満足してもらえなくなるのです。
そんななかであえて、必要最低限の「doing」な場面での「安全」に配慮したdoing(腸腰筋ストレッチや梨状筋、後頭顆)を除き、ひたすら「共有」「信頼」「尊重」のための「being」に徹するのですから、最初は不慣れで「共有」を許されたことを取りこぼすこともあります。「being」をキープすることは難しいことではありませんが、ただ慣れていないのです。
蟻の行列をぼんやり眺めたり、雲をぼんやり仰いだり、焚き火の炎をぼんやり眺めたり…子どもの頃に「ひとりで」「being」の経験があったとしても、誰かに触れながらの「being」となると、ヒトはあまりしません。犬や猫は習いもしないのにとても上手です。「誰かに触れながらのbeing」は哺乳類が子どもを育てるために必要不可欠なことで、赤ちゃんに対してはできることなのに、いつのまにか他の人に対してはしなくなってしまったのでしょう。不慣れなだけで、いつでもどこでも「安全」であればできるのです。
ニューロセプションが「安全」ばかりを検出し続けるセッションができれば、変化の選択肢は「回復と成長」の一択。もちろん変化の現れ方や速さには個人差がありますが、自律神経は生き延びるために必要なことしかせず、「安全」に対して防御反応を起こすことはありません。回復のための心身の弾力性「レジリエンス」は「安全」なときに力を発揮します。胎児の頃の安心感はすべての人が経験していることなので、それを思い出すには包み込まれるような、誰かとのつながりを感じながらの「安全」がいちばんなのです。
ポリヴェーガル理論についての過去ログ。
来週は熊本セミナー。
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20日セラピスト向け(残席1)
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