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美学なるものは崇高か?


前にTwitterでバズっていた、こちらの記事を読んで、感じたことが多く、殴り書きをしたものを供養します。

https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/g35475943/born-into-a-whutering-family-bjorn-andresen-210216/


『ヴェニスに死す』の映画は、中学生の時に観て、その唯美主義的な作風に感じ入った記憶がある。
共感や思考するまでの理解はできていなかったけれど、特別な作品だった。そう、美は、思想や理性を超える。
だからこそ、今回、タッジオ役のビョルンが、ビスコンティ監督や当時の大人たちに、物理的に、性的に搾取され続けてきたという事実に、崇高なものを容赦なく汚す強欲さのようなものを目の当たりにした気分になった。

美しい人を見ると心がときめき、うっとりする。心が惹かれ、目で追ってしまう。それは普通のことで恥ずべきことではない。
時には鬱屈とした気分を晴らしてくれたり、その場にいるだけで、「華」として愛でられる。だがそれは責めるべきことではない。

その種の美には二つの特徴がある。
一つには、その美は永久不滅ではなく、不変や普遍ではない。一過性で、刹那的な美は、それ故に価値がある。だが傷ついたり、老い、廃れれば、見向きもされない。例えば「美人は3日まで」という諺がある。美は飽き、それに若さは永遠ではないから、もっと本質的な部分を見る方が良い、というニュアンスで使われる。そこでは美人は、手に入れるところに目的意識をおくべきでない、ということを示している。とはいえ人はその時限りの美だ、なんて思わないし、その時美しければそれだけで惹かれる理由になる。だから見た目を気にしてダイエットをしたり、化粧やお洒落をして施したり、可愛くなりたいとかかっこよくなりたいと思うのだ。
もちろん、恋愛対象になるためだけにそう思うわけではない、あるいはそういう人ばかりではないけれど、だが素直に自分を顧みてみれば、デートの時には新しい服やら買ったりメイクを入念にし、夏までには痩せたいなんて思っている時点で、言い訳はできない。

二つには、その美は基本的に、「届かない」からこそ価値がある。「届かない」というより、「届くべきでない」。高嶺の花、という言葉は、自分が「その美に釣り合わない」が、「手に入れたい」存在である。だが手に入れるところに目的意識はない。今、あるがままのその美の存在に、憧憬しているというわけだ。

まとめると、刹那的であるからこそ、届かないからこそ惹かれるという美の性質があるけれど、その真理と裏腹に(その美を破綻させる行為である)支配欲や所有欲はある、ということだ。

『ヴェニスに死す』の作内で描かれる人間の唯美主義と、実世界で起こっていた「タッジオ」への性的搾取は、この両者の矛盾をきれいに(と言っては語弊があるが)内包した縮図になっている。

そこでようやく、私たちが信奉し掲げる美学、なるものの実体は、根底に潜む美への執着と支配的欲望であるのかもしれない、ということに気付く。

美しい花を愛でたい、美しい花を愛でる感性は素敵だ、そう思う気持ちも本当だが、それを自分のものにしたい、その生存を手中に握りたい、枯れさせるのは自分でありたいと思う気持ちもまた本当で、両方とも、表裏一体に違いはない。だがその表裏は逆説的であり、根本的に矛盾している。なぜなら、その欲を満たした時点で、その美学は変質しているからだ。



ここまで抽象的に書いているけれど、これを書きながら、私の内心は穏やかではない。
その欲は私の内部にもあることをひしひしと感じるからだ。

私たちのなかにも、いや、ここでは主語はあくまで私、として語りたいが、とにかくおおっぴらにできない、「それ」がある。
それを望み、それを求め、抗えない自分がある。
そのことがうすら恐ろしく感じるようになった。

例えば、なんとなく言葉にする、「かわいい」。とりあえずそう言っときゃいいか、みたいなノリで、対象物や人をそう評す。でもそこには、無意識的な消費心理がある。
アイドルなどへの偶像崇拝だってそう、「かわいい」「きれい」「カッコいい」を支配したり加虐したり独占したりすることの快感。
一方で自身もまたそのように消費され、支配され、求められることを主体的に望んでいないか?それによって、承認欲求(それは往々にして低い自己評価とセットだ)を少し満たしては、自分のレゾン=デートルと信じ込むことができるからといって。

特定の叶わない他者に対する「恋心」だってそう。憧憬といえばセンチメンタルで美しい物語だけれど、無意識的に手に届かない美、なるものの性的な消費の快感の味をしめて純愛だと思い込んでいるケースがあるのではないか。ライトに楽しんでいるつもりのそれだって同質の消費のコンテンツに絡め取られていて、根深いところで、根幹は繋がっている。

タッジオの記事を読めば、だれしもが「性的な搾取はいけない」「違法だ」「気持ち悪い」などと、あたかもまっさらな立場から、否定を突きつけることができても。この衝撃的なカミングアウトを前にしては、自身はビスコンティ達とは違う!と、モラリティの優越を確信できても。

実生活では、「まったく同じ」芽を持て余している。

結局インモラリティや、満たされない欲に魅せられ、それを餌食にする資本主義のコンテンツ展開にお世話になっているというわけだ。(あるいはそんなコンテンツの手を借りなくても、実生活の範疇で賄える場合もあるだろう)

ただうつくしいものが好きだ。うつくしいものを見て感嘆することは素晴らしいことだ。それは芸術であり、美学である。
ひとが美に魅せられたり美を表現したり美でありたいと切望することは尊いと思う。(ここでいう美はあくまで表面的なことを指している)
その欲が必ずしも「消費」を意味するわけではないと言い切りたい。
それなのに今の私はそれができない。美への支持は往々にして、金や名声や社会的地位、権力と結びつき、いかにそれに貢いだか、や、他者よりも距離が近いか、や、その人にとって自分がいかに有用か、が、その人への「愛」を自信付ける。そして、美を持つ者や得たい者は、金や名声や権力や大衆の支持に当て嵌め、それを評価基準として規定し格付けていく。自撮りへの「いいね」数を気にしたりticktockや加工アプリ、ミスコン投票が女子アナの登竜門になっていたりすることも同じ構造だ。

大衆は、美という言葉で己の欲を文字通り「美化」して、エンターテイメントやら表現の自由といってその行為を正当化する。
きっとタッジオのケースは、その範疇で現代でも行われうる、というより絶えず再生産され続ける類のものだ。



話は変わるが、いま私は、遠くの山村の宿にいる。
扉を挟んだ先の廊下でひしひしと、顔も知らない旅人の足音がする。窓の外には冬の田圃と夕餉の為に摘まれる菜の花が広がり、夕焼けの中で筑紫を摘むひとりの老婆があり、遠くの河口まで流れゆく水の音がかすかに聞こえ、見上げれば濃紺の天体があり、雪解けの名残がふるびた木造建築の片隅に土化している。この世界、この美、このなかに還り一体化できたらどれほど、と思いたいほどに心境は複雑だ。

景色があまりに美しいので、写真に残してSNSに共有したい私、こうして文字化して自分のことを書き留めて共有したい私がいる。
一方で、そのような共感性から完全に隔離された状態で、だれも私を知り得ないで欲しくも思う。評価などは正直要らず、この心境を阻害する全ての文明と関係性を未練なく手放せる心境を心地よくおもう私もいる。

ここまで来て、きっとつかれているだけだ、と我ながら思う。
私はいま、消費にとことんつかれ、過敏になっているだけだ、と。
そういうメンタルの時は、たまにあるだろうし、そのきっかけが、たった一つの記事だったりするのは珍しいことではない。

数日もすればまた、好きなキャラが可哀想な目にあう小説を読むだろう、綺麗な顔をした既婚者の異性からの誘いによろこぶのだろうし、出会いの場に行くとなれば着飾ってブランドの小物を身につけて美しくみえるよう努力するのだろう。推しのグッズを買って謎の「貢献した満足感」を得たりして、女友達と会えばトプ画やSNS用の盛れる写真を撮るのだろう。画面の向こうにいる完璧な造形の女が説く整形や美容の「体験談」をブックマークし、マッチングアプリでは第一印象で「いけるか」スワイプするのだろう。時に貪欲で金にモノ言わすコンシューマーを気取り、時に平然と一丁前な被害者ヅラで消費されて安心するのだろう。反吐が出るね!


「当然の欲求なんだよ性欲は。ていうか、恋愛的な意味での好き、って、結局は性欲だよ。腹が減ったら食べるだろ。満たされない現状があれば、満たしたくなるんだよ。そんでせっかく満たすなら、タイプの子がいいんだよ。そんだけだよ」

知り合いの男が自身のヤリチンっぷりを弁解するように熱弁を奮っていたのを思い出した。

「フロイトみたいなこと言うな、萎える」
と私が酒を煽ったら、
「まあまあ怒るなよ。君だけじゃない。みんな動物だよ、ただの」
彼はケラケラ笑ってたけど、何も笑えなかったし不快だった。たとえばこの安酒の後にホテルにいくのはまっぴらだと思った。

蠢く多数の欲望をまざまざと内視しておいて、それを「美しい」とか「好き」なんて言葉に結びつけて、無自覚に無責任に酔うようなループは、もう脱したい。
それは死ぬまで、不可能なのかもしれないが。

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