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山本耀司氏が叛逆する「権威」とは何か

ヨウジヤマモト プールオム(Yohji Yamamoto POUR HOMME)の2022F/W、痺れた。日本開催は12年ぶりだった中、ヨウジヤマモト青山店で開催された。ランウェイを歩くのは5人の渋カッコいい俳優たち。松重豊、仲村トオル、伊原剛志、加藤雅也、三原康可の5人だった。


これが悶絶するくらいカッコ良かったのだ。Twitterでは「イケオジばっかじゃん」という声で溢れ、特に松重豊氏の渋さ滲み出るshotは広く拡散され注目を集めたが、それも頷ける。ひたすら眼福である(語彙)。正直なところ、ユニクロを着てもイケてるメンツだ。Tシャツにジーンズでも様になる。だがそれでも、彼らにはヨウジヤマモトだ。そう思わせるほどのマッチだった。

前提として、ブランドは自己肯定感を高めることが存在意義のひとつとしてある。ヨウジヤマモトも、モダンファッションのトップブランドの一角だから、そのイメージが強かった。「ヨウジヤマモトを着ている自分、イケてるだろ」みたいな感じの…。でも今回のショーは、そうではないブランドの在り方を見せつけられました。(イキリファッション認定してすみませんでした・・・)
とてもナチュラルで馴染んでいて、「この人に着てもらうために出会いました」みたいな感じが、服から滲み出ていた。いや、ほんとに。


といってもよく考えたら服は元来、着せられるものではなく、着るものである。卵が先か鶏が先かの論とは違い、人と服だと人の方が先である。でも、ブランドものとなると、後者であること、つまり「着る」側に立つことは急に難しくなる。

一方で、「これでいいや」「なんでもいいや」という妥協的な消費を繰り返すことは楽だ。埋め合わせ、あるいは代替としてのものの見方に基づいた消費においては、あまりふかく思考はなされないからだ。されていたとしても、お財布の中の所持金のことと、他者のレビューについてくらいだ。でも、その選択は自分の生活の一端を担っている。つまり、その消費行動は自分の生を形作っている。もちろんファストファッションで消費をすることは賢明で堅実であるかもしれない。私自身、学生時代からファストファッションにお世話になってきた身なので、ファストファッションが叶えてきた多くの人の理想と平等の実現について、頭が上がらない。だがその一方で、もし消費について怠惰に、鈍感になってきているのだとしたら(それは往々にして自覚している)…一度、自分のクローゼットを見つめてみるのも良いだろう。そこにある大量の服____今シーズン一回も着なかったスカートや毛玉のついたニットもある…別にそう好きじゃないけど楽だから着ている服もある____それらの中で、この先一緒に生きていきたい服はいったいどれだけあるだろうか、と。

「一日に何回も、ファストファッションで買い物するなんて、少しは疑問持てよ。一着の服を選ぶってことは、1つの生活を選ぶってことだぞ。」

山本耀司氏は、ファストファッションについてこう発言したというが、実際、「消費」としてのファッションの側面が強調される中で、それを「生活の選択である!」と認識している人は、少数派ではないだろうか。ファストファッションでシーズンごとに服を入れ替え、トレンドもどんどん変わっていく時代だ。メルカリで売り買いしたりする形でブランドを身につけること自体は難しくも珍しくもなくなったし、シャネルやルイヴィトンの小物を持つ女子高生だってそれなりに見る。彼氏にエルメスのバッグなんかをもらった日には、インスタにあげたくもなるだろう。ブランドグッズ専門のサブスクだってあるくらいだ。金銭力の象徴であったブランドは、ただそれだけではなく「それに見合う自分」の演出と、文字通り「着せ替え」ていく付き合い方が、一種の豊かさのステータス顕示と結びついてきたように感じる。アニメなどカルチャーとのコラボ(最近だとLOEWEと『千と千尋の神隠し』のコラボが話題になった)やインフルエンサーを使った商業的プロモーションによって、金銭力の象徴としてだけではなく「それ(ブランド)を持つ自分」という一種のステータス顕示欲を消費者に植え付けていく。つまりそれは、「権威」なるものへの憧憬だ。

ここで面白いのが、山本耀司氏は著書『MY DEAR BOMB』にて、「権威のない服を作る」というのが自身の仕事だと記しているという点だ。ここで彼が言う「権威」とは何かというと、自身で明記されているファシズムなど、かなり社会的文脈での抑圧のパワーのことを指している。現代で言えば、ポピュリズムとか、あるいはグローバリズムと資本主義に伴う大量消費社会、プロモーションの力も含まれてくるのかもしれない。これらのパワーは、それ自体としては成り立たず、常に大衆や社会に生きる人間とセットである。

例えば「だいたい、あのリクルート・ファッションって何だ?」と山本耀司氏が著書で嫌悪感を露わにしているリクルートスタイルについて考える。就職活動となると、学生は揃いも揃って洋服の青山などに駆け込み、リクルートスーツを買い、髪型も就活生スタイルに様変わりする。ここには一種の権威が働いている。真面目そうに、頭が良さそうに、画一的に、目立たない形で、という社会通念が、いかにも社会人になる上での洗礼のような面で、大衆に埋め込まれている。

もっと感覚的な日常においても、この「権威」とは常に隣り合わせだ。例えば私はいま20代後半に差し掛かり、短めのスカートを履くことが躊躇われるようになった。男性の多い職場だから、馴染むために、レースや鮮やかなカラーなど、フェミニンな要素を減らしていきたいと思うようになってきた。だがデートに誘われた時や婚活では女性らしいモテ系の服を意識するし、上司と会うときはいわゆるコンサバ系の綺麗めなスタイルを意識せざるを得ない。いやそんなのは個人の選択だから、好きな服着れば良いじゃんという話かもしれない。あるいは「TPOが大人の常識だよ」と一掃されるかもしれない。だがどうしても、「ファッションとはとても社会的なものである」ということを意識せざるを得ない。そんな中、個性や自分らしさを真の意味で確立するということはとても眩しく映る。私がヨウジヤマモトのワンピースと出会ったのはそんな時だった。

街中で一目惚れをしたシャツワンピースがあって、それがヨウジヤマモトのものだった。私が普段買っているワンピースはファストファッションで1万円台だ。それなのに私はそのワンピースがどうしても気に入って、ウン万出して買ってしまった。そのとき私は、服に対する慣れない高出費に動悸がしながらも、「あ、もうこのワンピースがあれば他のはほとんどいらないや!」と、清々しさに包まれた。さて、そのデザインたるや、冷静に考えると「え、どこ着てく?合コン…だけは違うな。職場もなんか違うな。1人で美術館とか行くとき…?」という感じなのだが、もうそんなこともどうでも良くなるくらい、着ていたいと思う服だった。山本耀司氏がいう権威への叛逆は、こういうことだったのかもしれないと、今思い返す。服は生き方を選ぶこと、自分を選ぶことであり、その選択はセレンディピティに溢れている…。ヨウジヤマモトは、権威の匂いを潜在的に孕む「ブランド」の一つでありながら、やはり一貫して権威への叛逆を目論むブランドである。一見矛盾したパラドクス。だが、その実は高潔な美意識と叛逆意識の塊なのである。例えばヨウジヤマモトの服を選ぶ際に、脱女性とか、黒への執着とか、そういったイデオロギーへのシンパシーが先行してしまうと、ブランドはまた権威と結びつきそうなものだ。いつも揺らぎのある、矛盾と隣り合わせの性質を持つ美意識…繊細である。

山本耀司氏が服というものに対して置いている価値について、今私はこう思う。ヨウジヤマモトが辞書的なモダニズムを超えて、叛逆しようとした「権威」なるものは、私達がたいして考えもせず作り上げてきたクローゼットの中身のことではないだろうか。あるいは私達が日々消費行動、ひいては現実の生に勤しむその行為を正当化してくれる、あらゆる認識・イデオロギーのことではないだろうか。と。

今回のショーを見て、シンプルに、歳を経ることが楽しみになった自分がいた。「着られる」のではなく「着こなす」彼らをみて、それは歳を経て経験を経て多くを吸収し色々なものを身に付け削ぎ落としていったからこそだと感じた人は私だけではないと思う。年齢を重ねてようやくしっくりくるとか、巡り合えるというのは、生きる理由にもなる。美学は人を生かすというのは本当だ。若さがすべてじゃないなら、おしゃれは若い時、というのも違うはず。女性だってきっとそう。いま悩めるファッションのあれこれに対して、鈍感になるのではなく、叛逆する気持ち、忘れたくない。その結果いつか出会う服を心待ちにしながら、アラサーの生も楽しんでいきたいものだ。

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