ロンドンにて

画像1 プライドと偏見。ロンドンに来る機内で観た。中学時代に初めてこの映画を観て、ときめいた。大学時代に原作を読んで、ときめいた。今改めて観たら、やっぱりときめいた…し、偏見について考えさせられた。ネガティブな印象が偏見として存在して、実は良い人だった!…という展開は、割と珍しい。みんな初対面でよく見せようとするし、まともな人ほどそうするはずだ。だがこの良い印象もまた偏見なのだ。良い印象が己の偏見であったと気づく時、相手に興醒めしたり落胆する。切ないねえ。偏見って、恋愛の鍵かもね。ハーゲンダッツ、美味しい。
画像2 天候と偏見。日本では陽の光が眩しくて目覚めるのが常だったが、ここでそれをやると8時台に目覚めることになる。そして、夕方4時には日が暮れる。「だからここは鬱が多い」といやそうに上司が言った。Seasonal affect disorder(季節性情動障害)、略してSADというのは、天候による軽い鬱をさすんだとか。だがWHOによれば、鬱の人口比はアメリカやブラジル、オーストラリアの方が多い。鬱の要因なんて多種多様だ…私にとっては、曇りも、夜が長いのもわるくなく、終始不機嫌な上司の態度の方が、よほど鬱である!
画像3 人種と偏見。すれちがいざまに「你好」と呼びかけられることは、やはり何度かある。10代の頃初めて経験した時は差別とは感じず、素直に「I’m Japanese」と返した。すると「コンニチハ」と訂正され、私は嬉しくさえあった。だが確かに、明らかに嘲笑してきたりぼったくってくる人もいる。本当に「差別意識があるか」、すなわち相手のアイデンティティを卑下したり排除したい意図があるのかは分からない。意識は見えないから、結局、不快にするかもしれない表現は避けるのが尊重であり、知性だよね、というところに落ち着くのだろうか。
画像4 差別と偏見。だがそもそも、「你好」と呼ばれること自体に不快感がある場合、もしかしたら中国人のイメージ自体が嘲笑の対象という、中華差別意識を無意識に共有しているのかもしれない。欧米人らしく見える相手に「Hello」と挨拶した時、英語が公用語だし人口が多いとはいえ、実際にフランス人だったので「Bonjour」と返されたことがある。差別行為は罪だし、差別意識は問題だ。しかし、表現とコミュニケーションに染みついたニュアンスの解釈を踏襲していく中で、無意識に自身の差別観を、一昔前の偏見と共鳴させている可能性もある。
画像5 芸術と偏見。美術館でバイトをしていた頃、ストリートアートに興味が湧いた時期があった。バスキアやバンクシーなど、大きな注目を浴びる展示が続いていた頃。最初に私が興味を持ったのは、ともすれば日本では器物損壊罪となるような公共物への「落書き」がアートとして認められている点だ。スラム街から台頭した芸術家も少なくない。ヨーロッパに来てみると、一つ通りを違えれば完全に「スプレーアート」まみれだ。アートには価値観が反映され、街もまた価値観を反映する。色々な街を歩き美を知ることは、多様性を神話化させないための一助となる。
画像6 ルッキズムと偏見。業界には圧倒的に男性が多い。飲み会では、私がいても女性におけるルッキズムの発言が行われる。「女は若さ」「あそこの女はブスだから性格も悪い」といった下世話な偏見論だ。とても人の容姿に文句をいえる美丈夫ではない上、発言自体に品性を疑う。だが彼らはこの価値観のまま業界でのマジョリティとして傲慢さに胡座をかき歳を重ねていくだろう。声を上げるのも面倒だ、そのうち離れるには十分な理由だ。人間性というのは最後の砦だと思いたいが、かなしいかな、個人の善性に期待してもマジョリティの前では無力なのである。
画像7 食事と偏見。イギリスのグルメはまずい、という…偏見。正直、これは一理あるのかもしれない…でも私がたまたまハズレのハンバーガーを食べた可能性もあるし、たまたまハズレのブレックファストを頼んだ可能性もある…スイーツと紅茶は最高だけど。でも、すごく気に入ったものもある。写真は、オックスフォードで食べたランチだ。ローストビーフに、ハッシュドポテト、豆、人参などが、グレイビーソースで味付けされている。上には大きなブレッド。ホットワインともよく合う。美味っていうか、ちょっと心躍る金曜の昼下がりみたいなランチで好きだ。

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