自責は罪滅ぼしにならない
二才の娘が溺れた。
ただ静かに、誰にも気づかれることなく。
彼女のすぐそばには、腕の浮き輪が浮いていた。
その真横で、夫と息子は遊んでいた。
これが地獄か、と思うような構図だった。
私は、娘の名前を叫ぶことしか出来なかった。
なぜ、子どもたちを一人に任せてしまったのか。
なぜ、子どもたちを見れない場所に行ってしまったのか。
なぜ、浮き輪を信頼してしまったのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
まもなく夫は異変に気付き、娘を抱き上げた。
彼女は飲み込んだ水を吐きだし、
呼吸を整える間もなく大声で泣き出した。
生きてた。
プール中に響く2才の泣き声は、
家族旅行の終わりを意味していた。
泣き止む気配のない娘を抱え、更衣室に戻った。
着替えさせ、ドライヤーをする。
「こわかったよね、ごめんね、ごめんね」
私の声かけに応答するように、より大きく咽び泣く声が、今度は更衣室中に響いた。
彼女をなだめながら着替えさせていると、
高齢の女性に話しかけられた。
「もしかして、おぼれちゃった子の…?」
反射的に、迷惑をかけたことの負い目を感じた。
「はい。お騒がせしてすみませんでした。。」
ところが、真逆の意図だった。
「いえいえ!とんでもない。無事で本当によかったね。実は私も溺れさせちゃったことあるの。けど、無事だった。…あんまり自分を責めすぎないでね。もしよかったら、またみんなで遊びにきてね。」
まさかの、私自身への声かけだった。
全くの想定外の言葉に、涙腺が反応した。
私は、自分を責めている。
しかし、必要以上に責めても何にもならない。それは罪滅ぼしにはならない。
自分を責めるより大切なことがあるよ、と
あの女性は教えてくれたのかもしれない。
二週間以上経った今でも、娘はふいに
「プールこわかった」と伝えてくる。
罪悪感は消える見込みはない。
それでも、これからは、少しでも「たのしかった」と言ってもらえるように、たくさんの思い出を作っていきたいと思う。
そして、あのプールに再び行って、楽しい思い出に上書きできますように。
ただし、こうして前向きになれるのは、やはり娘が無事だったからだ。もし万が一の結末になっていたら、責めるのをやめられないと思う。
プールでは一瞬でも目を離さないこと。
それは、楽しい思い出にするために。
おしまい