仏作って魂入れず
私は漫画を10年近く描いてきて、デビューも受賞(紙媒体の)もしていない原因は、山ほどあると思うのだが、その一つに「基礎の弱さ」というものがある。
こないだ私は、コミチの「私のアツい夏」という賞に応募した。
賞に応募するのは久々だ。
タイトルの通り「夏の出来事」について描くのだが、私は4年前に「沼にハマった話」をピックアップした。
6pのショート漫画。絵も極力丁寧に描いたつもりだ。
だけど、描き終えたあと違和感があった。何かが変だなと。
題材はいい。沼にハマるなんて経験そうそうないはずだ。面白いと思う。
でも、何かが欠けている…。
頭にハテナを浮かべたまま、締切日に提出し、結果を待つことにした。
数日後、提出したこの漫画にコメントがついていた。
漫画家の樹崎聖先生だ。
樹崎先生にコメントをもらうのはこれで2回目。1回目は「12年ぶりに同窓会へ行った話」というショートストーリーに。この時は「予想外な演出が良い」と褒めてもらえた。
今回はどうだろうか…と恐る恐る覗いてみると…
「えっ?これは実話なんですか?
だったら…」
「せっかく沼に落ちた経験をしたのに、活かせてなくて残念ですね」
「読者にどう思ってほしいのか…よかったと安心してほしいのか、沼怖いって感じてほしいのか」
「何を描くときも同じなんですが、そういうところをもう少し考えてほしいと思います」
という感じの評価でした。
このコメントを見た時、率直に感じたのが、
「ですよね…」という強い納得。
そもそも、何かがおかしいなと思いながら描きあげた作品だったので、その「おかしい部分」を樹崎先生にずばり指摘してもらえて、「よかった…」と思った。
同時に、私はコルクラボマンガ専科で半年間何を学んできたんだ…と反省した。
あれほどまでに、「漫画は感情」「コレドナ状況から物語は始まる」「クライマックスはカタルシス」などノウハウを教え込まれたというのに、それを一瞬で忘れ去って、ただただ沼に落ちただけの話を描くだなんて…。
自分でも、どうしちゃったの、という感じ。
なんという体たらく…馬鹿じゃないのか…。
自分が馬鹿だと再確認したので、
会社から帰宅した後すぐ、12pのネームを描きあげた。(今は13p)
沼落ちエッセイの、改変版。
指摘を受けて、漫画を描き直したのは何気に初めの試みだ。
沼に落ちてどう感じたのか、沼の感触は?
自分の経験だと証明するためには、どう表現すればよいか?
誰かから聞いた話や、想像で作ったエピソードでないことを、どう描けば伝わるのか?
何度も修正を重ね、とことん考えながら描いていった。
プロの方は、これをいつもやっているんだと考えると、少し漫画を描くのが不安になったりもしたけど、同じくらいとても楽しくてワクワクした。
私は子どもの頃から「感想文」というものが苦手だった。
繊細な部分があるから、人一倍傷ついたり感動したり泣いたりして、いろんな感情を得る割に、それを説明するのが苦手だった。
「言いたいこと言いなよ」と周りに強く言われても、自分の気持ちを親友や親にすら言えなかった。
だから、作中にもなかなか出せないのかもしれない。
でも、漫画を描くなら出さなきゃ。晒さなきゃ。
〇〇はるか(本名)なら、別に本心を言わなくていいのかもしれない。その方が楽だったり、生きやすかったりするのならば。
だけど、漫画を描く「田丸はるか」なら、伝える必要がある。
きっと、みんなが聞く耳を持ってくれる。
何故なら、田丸はるかの考えることは、すごく「変」なことで、
もしかしたら「面白いこと」かもしれないから。
興味本位、野次馬、共感してくれる人、ファンになってくれた人、ユーザーはさまざまだけれど。
それでも、自分の感情や経験が、嘘ではないことを訴えたい。こんな気持ちになって、こんなことを思ったんだということを、手紙のように記して、誰かの心に残したい。
たった6pの漫画を賞に応募したことで、物の考え方がまたひとつ変わった。
やっぱり、漫画はどんどん見せていかなくちゃ。私は叱られて伸びるタイプなのだから。