【人生】極限の状況で手に入れた言葉②〜死生観
人生を遊ぼう!
この言葉は、私に、不思議な力を与えた。
嘔吐物まみれ、排泄物まみれのトイレを清掃する時も、この言葉はを思い出すと、
よし!遊んじゃえ!
と、笑顔になり、清掃するのが苦ではなくなった。
近所にある実家から、連絡があり、倒れた母と共に救急車に乗った時も、病院で処置を受ける母を長時間待っている時も、
人生を遊ぼう!
この言葉を思い出すと、妙に冷静でいられた。(母は、無事、退院しました。)
なぜか?
実は、この言葉には、あるテーマが潜んでいる。
死生観である。
人生を遊ぼう!
と、唐突に言われると、なぜ?っと、思う。
そして、なぜ、遊ぶのか?と理由を探す。
そして、私が思い浮かんだ理由が、
束の間の人生なのだから、人生を遊ぼう!
どうせ、死ぬのだから、人生を遊ぼう!
人生は一度きりなのだから、人生を遊ぼう!
などである。
そう、人は死ぬ。
例外はいない。
人は生まれてきたら、必ず死ぬのである。
私は、かなりの数の本を読んできた。
当然、死について書かれている本も読んできた。
しかし、本気で、死について、考えたことは無かったのかもしれない。
うん、そう、人は必ず死ぬんだよね…っと、どこか他人事だったような気がする。
しかし、
人生を遊ぼう!
この言葉は、私に、死とは何なのか?本気で考えるよう、迫ってきた。
私の両親は、まだ、生きています。
父は、認知症になったものの、母に世話を焼かせながら、生きています。
私は、身近に死を感じることが少なかったため、40代後半の今、ようやく、死について考えることができるようになったのだと思います。
若い頃に身近な人の死を経験してきた人は、早い段階で、死というものに向き合えたのだろうと思います。
そう考えると、今までの私は、未熟な子供で、恥ずかしくなります。
では、死とは何か?
私の考える死とは、自我の消失です。
私は、無宗教です。
だから、あの世であるとか、輪廻転生などは信じていません。
否、以前の私は、何となく、そんな世界があるのではないか…と、思っていたかもしれない。
しかし、今、冷静に、本気で考えれば、考えるほど、そんな世界は無い。人は、生まれて、自我が芽生え、最後は消失するのだと、私は結論付けるのです。
今見えている世界、感じていること、考えること、全てが消失する。
怖い…
しかし、全人類が、この運命から逃れることはできない。
センチメンタルに言えば、全人類が、悲劇のヒーローであり、悲劇のヒロインです。
身近な人が亡くなる。
悲しい?
でも、数十年もすれば、私も消失する。
父や母が、死に近づく年齢になって、思います。
順番なんだな…と。
自分の死の瞬間を想像して、目標を持ち、計画を立てればいいなどと書かれた自己啓発本を読んだことがありますが、死はいつ訪れるかわかりません。ベッドの上で皆に惜しまれながら死んでいくなんてことを想像することに意味があるとは、私は思いません。だって、死んだら、残された世界を見ることなどできないのですから。自我は消失するのです。
後世に、名を残して、何の意味がある?
自我が消失しているだから、自分の死後の評判など、知りようもないのです。
名を残すことに意味はない。残すならば、後世の人を幸せに導く何かです。
それが、繋いでいくということでしょう。
様々な人生があります。
不平等だ!と思う人もいるでしょう。
でも、いくら出世しても、死ぬのです。
いくら、お金を持っていても死ぬのです。
富と名声、全てを手に入れた人も死ぬのです。
死は、全人類に、必ず訪れる。
全人類の自我は、消失するのです。