演技講師が考える「上手そうに演じない!」ことの大切さ
みなさん、こんばんは!
演技講師のひがくぼかおるです(・∀・)
今日のテーマはずばり「上手そうに演じない!」です。
俳優を目指している方はもちろん
趣味でも一生懸命に取り組んでいる方は
誰しも「演技、うまくなりたいなー」と考えますよね?
私も20年俳優活動をしていて
いまでは演技を教える仕事までしておりますが
それでもやっぱり「演技上手くなりたいなー」
と思っています(笑)
でも、「上手い役者」と言われるよりも
「すごい役者」を目指しています。
とはいえ、上手い演技ってどんな演技??
気になりますよね。
みなさんは考えたことがありますか?
〇滑舌がいいと上手い?
〇声が大きければ上手い?
〇声がきれいだと上手い?
〇きれいに動けると上手い?
〇感情表現が大きいと上手い?
台詞は聞こえたほうがいいに決まってますが
これだけできれば「上手い演技」かと言えば違いますよね?
しかも、あなたが演じる役の人間は必ずしも
・滑舌が良かったり
・声が大きかったり
・声がきれい
・動きが美しい
・感情表現が豊か
とは限らないですよね?
「上手い」と「上手そう」の大きな違い
ここでいきなりなのですが、現代は情報社会です。
情報に溢れています。
スマフォを持ってれば
ドラマや映画、アニメなど見放題!
YouTubeにも色んなコンテンツが溢れているし
ラジオや音声アプリなどもたくさんありますよね。
色んな「完成系」のパターンに触れる機会が満載!
レッスンを受けて頂く方には
何度も何度もお伝えしているのですが…
お客さんとして目にする完成された
「台詞や行動」は結果でしかありません。
役者はその結果に至るまでのプロセスを
きちんと踏んだ上で表現をしなくてはなりません。
何が言いたいかというと…
結果の表面的な部分だけを真似しても
どこか違うはず。
実は表現になっていないということです。
「上手そう」ではあるけれど「上手く」はない
それに思うのです。
本当に上手い人って「上手そう」ではないのではないでしょうか。
例えば、これは極端な言い方ですが…
不器用で朴訥として、人前で話すのが苦手なキャラクターを演じているとして、でも「俳優としての上手さ(技巧・テクニック)」が際立つ、めっちゃ明瞭な滑舌でキビキビ動いていたら不自然ですよね?(笑)
逆にそんなキャラクターをあたかも、
本当に存在しているかのように
「この俳優さん、もともとこんな不器用なんじゃない?」なんて
言われたら、すごくないですか?
きっとその場合は、口ごもったり、ドギマギする特徴をしっかり捉えて反映させているのではないでしょうか。
さらに、その上でモゴモゴ喋っていると感じるのに何故か「台詞の内容はしっかり聞こえる」
それが本当のテクニック、本当の上手さのひとつではないでしょうか
表面的な結果だけを真似しようとしても
それは絶対に上手くいかないのです。
技術は練習の積み重ねで必ず付いてくる
滑舌や大きな声を出すこと、
演技者としての立ち振る舞いなどは
意識と練習、振り返りで必ず身に付きます。
毎日のように、練習用のテキストを口に出しているうちに
口や舌、喉の筋肉が鍛えられて、発語しやすくなりますし
自分自身の身体の特徴(舌の長さや歯並び、顎の付き方など)を
理解できるようになるので、初見の文章を見ても
「あ、この辺は気を付けて喋ろう」とか
頭で理解していなくても身体(口)が自然と慎重に動いてくれるようになります。
台詞を喋る時に、身体をゆすったり、
リズムを取る癖がある方は多くいますが、
それも「見られている」という意識に慣れることで意味のある動き以外を制御できるようになります。
これはもう習うより慣れろという世界なので
わたしのレッスンでも本人が気づいていない場合にはそれぞれの癖をお伝えすることはありますが
一回言った後はいちいちうるさく言ったりはしません。
おうちでがんばってね、と心の中でエールを送っています。
「上手い」としか言われない演技…それは?
レッスンをしていて、よく見かけるのは
「こういうシーン、どっかで見たことある」
「この流れ、ありがちなパターン」
というケースです。
もちろん、台本の流れや相手役とのやりとりの中で
〃なるべくしてそうなった〃場合もあるとは思います。
それは全く問題ないです。
その時には必ず、その人なりの道筋を辿ってその表現に行き着いているので「どっかで見たな」とは思わないものです。
ですが、結果だけを求めて過去に見たことのある何かを
「自分でも無意識のうちにトレース」してしまっているケースが多くあるのも事実。
無意識、というのが
なかなか曲者なんですよね。
分かる人が見れば、その結果が〃なるべくしてそうなった〃のか
プロセスをすっ飛ばして、○○ぽい演技をしているだけなのかは
一目瞭然です。
「わかる人」と書きましたが、一般の視聴者でも「上手い」だけの感想しか出てこない場合には、やはりそれ以上のものはなかったということでしょう
そして一般の視聴者というのはプロの観客と言い換えてもいいでしょう
あなたが演技を通して伝えたいことは
「あなたの演技が上手い」ということですか?
答えは否ですよね?
自分の身体の中に表現するべき想いや感情が
しっかりと蓄積できていない時、
それでももっと「上手く見せたい」とか
「自分の頭のイメージの通りに演じたい」とか
意識が自分のエゴに向いた時に、
自分がその時できること以上のことをしてしまいがちです。
身体が準備できていないのによくばって
頭で制御(補正?)しようとすると…
必要ないのにわざと大きな声や声色を変えてダイナミズムを付けて見たり
無駄に相手役の意表を突くようなリアクションをしてみたり
それまでと関係のない流れを作って自分のやり易い方向に引き寄せたり
そうなってしまうと、もはや
自分自身の演技も、相手の演技も、観客と作る空間(稽古場の空気)も
その場にあるものを感じられていない状態になっています。
とても残念ですよね。
本当の上手さ、いい演技とは
「本当の上手さ」「いい演技」ってなに?
という問いに、わたしには明確に答えられません。
答えはたくさんあるんじゃないでしょうか
それこそ、結果だけを見れば
色んなパターンの演技があるし
作品によって求められる演技は変わるし
上演や撮影の環境、演出や監督の求めること
創作の目的によっても
必要なことは変わってくるはずだし
観客も十人十色、それぞれの好みがあり
誰もが面白いと感じることなんて奇跡みたいなものなので、
感想でジャッジすることもできないと思います。
とくに私は自分自身、俳優がベースの演技講師なので
「この演技がいい!」とは言い切りたくないと思っています。
その場に必要なことに柔軟に
求められることに何にでも
対応できることを目指しています。
(従順とは違いますよ。それについてはまたいつか)
ですが、これだけはやらなくてはいけないと思っていることがあります。
「そこで生きる、その場に居る」ということ
普段、自分として日常を送っている時
考えたり、感じたり、動いたり
自然にしていますよね。
そして、誰かと話していれば、
新たに気持ちが生まれたり、動いたり
役を演じている時にも
人間として普段やっていることを
全てやりたいし
日常で閉じている感覚をも研ぎ澄ませて
さらにビビットなコミュニケーションを
生み出したいと思っています。
そして、その場で出来る限りのベストを尽くしたい
(リアリズムの表現でない場合には、広い意味の表現を求められることもあるでしょうが、結果としての表現の形が変わっても、観客は人間で自分も人間なので、入り口は同じかな、と)
その場で起きることに自然に反応しながら
でもいつ何時でも、台詞を潰さずに聞こえさせる、など
技術と、技術だけではカバーできないことを共存させたい
技術は練習と重ねれば付いてくると話しましたが、
じゃぁ、それ以外は…?というと
これはもう、一生修行あるのみですね(笑)
自分の心と身体の声に耳を澄ませること
センスを磨くために色々なものに触れること
自然や、アート(今のものも昔のものも)、音楽
美味しい食べ物、色んな土地
自分の周りにいる人に想いを馳せたり
近くにいない人でも想像してみたり
様々なことに興味を持つこと
自分の内面も大事にしながら
オープンになれる場ではさらけ出してみること
何が自分の感性の栄養になるのか…
なにが自分をリセットして
ニュートラルな状態にしてくれるのか
演じるときの自分のベストな状態はどんなものか
研究、研究ですね(・∀・)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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