ブラームスのバラード

ピアノ曲でバラードといえば誰しもがショパンの四曲を思い浮かべるだろう。またその中の何人かはリストのバラードも思い出すかも知れない。

ショパンの四曲はミケヴィッチの叙事詩から刺激を受けて作曲されたらしいのは多くの人が知るところだ。

またリストについては幾つかの説があるようだが、いずれにしても元になる詩と内容について語られるのが通例である。

これらの曲に次いで知られる曲としてはブラームスの作品118-3のバラードを挙げても良いのではなかろうか。

ではこの曲は一体どのような叙事詩からインスピレーションを得たのだろうか。

そう訊かれて戸惑いを感じる人が少なからずいるだろう。研究に余念のない人は底本と思しき物語を突き止めたと信じているのかもしれないけれど。

しかしこの曲から物語性を感じるのはほぼ不可能だと言って良い。これは意識的にせよ無意識のうちにせよ、この曲を弾く人の殆どが感じているのではないだろうか。私が取り立てて言う必要はないのである。

それでも書いてみようと思い立ったのは、この曲が速く弾かれすぎると感じるところにある。

バラード・叙事詩の語り口を想像してみよう。だれが早口でテンポ良く語るだろう。

ブラームスは物語に沿ってインスピレーションを得たのではない。叙事詩の語り口そのものを想ったのだと私は感じる。そうでなければこの曲の重厚感は理解出来ないと思う。

「昔トゥーレに王ありき」「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」洋の東西を問わない、ひとつ声に出してみたら良い。

ブラームスという人は皮肉屋だったという。なるほど思ったことをストレートに言わず、ひとひねりした表現にする傾向はある。作品の中でもそうだ。

例えばレジェロである。この語の意味は誰でも知っている。知りすぎて漠然とした理解に留まっていると言いたいほどだ。

これは音の質に関する言葉でなければならぬ、ブラームスはそう考えたのではないだろうか。人の皮相な理解を密かに嗜めるかのように、1番ソナタのアダージョの中でレジェロと記す。

これに似た印象を私はバラードという表記にも持つ。

諸君はショパンのバラードがあまりに素晴らしい出来なのでこれこそがバラードだと思い込んでいないだろうか。しかし叙事詩の持つ重厚な語り口は何処にも無いではないか。私はむしろその側面こそを書いてみよう。そんな思いがブラームスに無かっただろうか。

そう考えるとこの曲から物語性を感じることは難しいことに得心が行くのだが。






いいなと思ったら応援しよう!