最近のピアノの演奏で気になることがある。構成力という言葉を発する人ほど緊張の糸が切れてしまっていることだ。 どうも彼らは精神の緊張を求められる箇所を「設定」してその他の部分は力を抜き次なる緊張に備えているように聴こえる。 その上でそれを構成力だと見做しているのではないかと思われる。それではひとつの全体を繋ぎ止めることが出来る道理もない。 ひとつ極端な例を挙げようか。ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」は冒頭の嵐の前奏曲、ジークリンデとジークムントの二重唱、フンディングの登場
豆腐が好きである。幸いにも私の住む町には旨い豆腐屋がある。 大学に入って間もない頃、電車から豆腐料理という看板を見つけた。都合の良いことに大学から徒歩で行くことができる距離にある。 早速食べに行ったのは言うまでもない。 初めてコース料理を食べるのだ、しかも大好きな豆腐の!私は奮発して8品料理を注文した。 今となってはどのような料理がどのような順序で出て来たのかもう思い出すことはできない。 当時私は若く物の道理をわきまえていなかった。せめて舌切り雀くらいは熟読しておく
演奏には解釈がつきものだ。 ところで私はこの解釈とやらがどうも苦手である。 いや、言い直しておかなくては。私が実に居心地悪く感じるのは解釈という言葉なのだ、と。 随分偉そうに聞こえると感じないだろうか。私の解釈、私のワルトシュタインの解釈は~などと言われた日には、ひれ伏すしかないではないか。 昔から違和感があった。しかし私が敬愛する演奏家たちも用いている言葉だし、立派な演奏をするのだから気にすることもあるまいか、そんな感じで容認していた。 私の下した結論を書くが、ヨ
過日講座をした際にピアノを学んでいる人から質問があった。 レッスンで「独りよがりにならないよう」注意があるけれど、それがどういうことか分からないとのことだった。 このフレーズはよく聞く。言われたほうはかなり否定的なことを言われたように深刻に受け止めるだろう。 私はこうした漠然としたものは言ってはならないと思う。 この言い方が演奏を肯定したものではないのは誰でも分かる。その場合、たとえばどこがバランスを欠いているのか等、具体的に指摘すればことが足りるはずだ。それを独りよ
古いピアノを探すことが多い。 私がまったく理解出来ないのは、再塗装していないピアノは中々売れないという事実である。そしてそれは5,6百万するスタインウェイなどの「高級」ピアノになるほど目立つ傾向にある。当然再塗装の分価格も上がる。 楽器を正面から論じるのはもう何度もしたし、繰り返したところで詰まらないから、今日はまったく違う処から書いてみよう。 皇居の宮殿が新宮殿と呼ばれていた頃のこと。建設中の銅葺きの屋根は当然ピカピカだった。宮内庁の担当部所には何という悪趣味だと抗議
二十代後半からおよそ10年を過ごしたハンブルクこそが私にとっての故郷だというのに何のためらいもない。人生の中で最も活力のある時期をすごしたからであろうか。 そのハンブルクに新しいホールが出来たことは友人からの便りで知っていた。 奇抜な外観と内装は私の知るハンブルクには似つかわしくないと残念な気持だけがあった。 音響は良いはずがない、聴くまでもない、そう思っていた。というのも正式な名称は知らないが、サントリーホールでお馴染みの舞台を客席が囲む様式だと知ったからである。(葡
神奈川県立音楽堂で生徒たちの演奏会を開催した折に音楽堂の方と少し話しを交わしたのであるが、音響設計は石井聖光という人がしたのだと知った。 石井さんは非常な高齢だったが音楽堂で講演をなさったそうである。 講演の中で、この様な良い出来になったのは偶然の産物だと発言されたという。 これは謙遜も入っているだろうが、半ば真実でもある。 どの様に新しい概念、技術が導入されても、やはりその音響は偶然の産物だという方が正しい。 音響が素晴らしいのならば、その偶然に感謝して何としても
ピアノという楽器は極めて単純な器具だと言っても良い。機構は楽器の中でも複雑なのだが、ハンマーが弦を打つ、鍵盤が底板を打つ、この2種類の打楽器が併さったものだ。その発音の原理から言えば単純なのである。 メーカーにより多少の違いはあれ、ハンマーがアクションから放たれる地点は 所謂鍵盤の底ではないことは今さら強調する必要もあるまい。 かたや人体における動作は、これまた人によって違うものの、基本的には同じようなものだと言ってよい。 速い動作、強い動作に際しては体は小さく丸くなろ
大袈裟なタイトルを付けておいた。 バルトークの「子供のために」は子供に弾かせると良い曲集のひとつだ。元来がわらべ歌だし、題名からあれこれ空想して歌詞を作ってあげると子供は喜ぶ。 しかし厳格な人達は何処にでもいる。 すべての曲にオリジナルの歌詞が印刷されている楽譜がしっかりと存在するのである。 歌詞は我々にはまったく馴染みのないものである。国も時代も違うのだ、当然のことだろう。 だが、これが印刷されていると全く違う歌詞や情景を想像して作る気力が削がれるのもまた仕方ないこ
楽音とは物理的には雑音だ。 ピアノにおける雑音の最大は鍵盤が棚板を打つ音だ。 では鍵盤は棚板にぶつからないように弾けば美しく聴こえるのだろうか?これはこれで全く違うのである。 浮ついた音で弾いてはいけないと言われる。その時の音がこの音なのである。腑抜けた音だと言われることもある。 では更にもう一歩前に進んでみよう。 この腑抜けた音は使い物にならない音なのだろうか?それもまた違う。 所謂レジェロはこれに近い。ある時にはこの音そのものである。また、例えばショパンの「エ
ボクシングに八重樫という選手がいた。世界チャンピオンだった人だから有名だが、音楽家の音楽論を読む人には縁遠いかもしれない。 この人が競輪の後閑というかつての名選手と対談しているのを読んだことがある。この選手も競輪界で有名だったらしい。 この2人のアスリートは偶然にも猫の動きに着目していたという。猫科の中でもチーターなのだそうだがしなやかで力強いからだろうか。 曰く猫科の動物の背中は彎曲している。それが大きなエネルギーを生む原動力なのだと強調する。後脚であれ程高く跳び上が
レストランに行ったとしよう。 大変美味しいと感じた場合、またその店に来ようと記憶に留めるだろう。料理に情熱を持つ人ならばその味の秘密はどこにあるのだろうと舌で探ろうとするかもしれない。 いずれにせよふふん、味はとても素晴らしいですね、、と言いつつ素通りすることだけはあるまい。料理人のセンスと努力を想っているわけである。 味は素晴らしいですね、、の後につけ加わるとしたならば、しかし店内が不潔だ、とかウェイトレスが無愛想だったといった不満くらいだろう。 これがピアノ演奏と
カタロニア州歌が極めて印象的だったと書いた。その後サッカーワールドカップで国歌を巡って面白く感じたことがある。カタロニア州歌があまりに印象的で、国歌に耳が向くようになったからだろうか。 ドイツの国歌がハイドンの四重奏「皇帝」のアダージョに依るのは有名だが、第二次世界大戦前はオーストリアの国歌だったはずだ。どのような経緯でドイツ国歌になったのだろう。 それにしてもこのメロディとハーモニーは実に美しい。出来れば四重奏を聴いて貰いたい。 ドイツに国歌を譲った?オーストリアの国
F1のスペイングランプリが開催された時のこと。 スペイン国歌が流れたあと、何やら聴いたことのない音楽が演奏されている。何だい、これは?家族が直ぐに調べてカタロニア州歌だと言う。 そうかい、いやスペインも大変だなぁ、こんな反抗的な歌を州歌にしている地方があるのでは。 家族が歌詞の意味も調べると果たして中々勇ましい歌詞なのである。 搾取する者に対して鎌の一撃を振り下ろせ、そのような感じ。 音楽は具体的な何物も表さないというのは本当なのであるが、同時にある種の気分を正確に
私は中学生の終わりくらいからバッハのカンタータに親しみだした。キリスト教徒でもないのに親しんだ切っ掛けは、FMで132番を聴いて陶然となったことである。 この曲は永らく聴いていないので、ふと思い立ちyou tubeで聴いてみた。 しかしどの演奏も記憶に結びつくものではなかった。 あれこれ漁っているうちにややアプローチが似ている演奏に行き着いた。そうだった、私はこんな感じの演奏でバッハの曲の美しさを発見したのだった。 コメント欄に目を向けると、ドイツ語で書き込まれたもの
部屋を整理していたら古いカセットテープがいくつも出てきた。上書きされることのないように爪を折ってある。してみると何か大切な良い録音なのであろうか? 聴いてみようにも既にカセットテープをかける機器は壊れて捨ててしまった。仕方なく安物の機器を購入してひとつひとつ確かめている。 最初の一つをかけた途端、パイプオルガンの音が流れ出した。これは恐らく北ドイツかオランダの古い楽器だ。大変良い楽器だと分かる。 多分その昔ドイツでラジオの番組を録音したものだ。毎日曜日の朝、歴史的オルガ