熊本藩高瀬米蔵跡と菊池川の港まち「高瀬」
2022年6月17日、国の文化審議会は高瀬船着場跡、晒船着場跡、高瀬御蔵跡からなる熊本藩高瀬米蔵跡を国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申した。近く国指定史跡となる。
菊池川にかかるJRの赤い鉄橋(菊池川橋梁)の下には、史跡「高瀬船着場跡」がある。江戸時代、菊池川流域の年貢米の集積地として栄えた高瀬の船着場だった場所。船着場の背後には、年貢米をおさめた熊本藩の米蔵「高瀬御蔵」があった。
高瀬は熊本藩最大の米の集積地で、毎年20万俵もの年貢米が大坂蔵屋敷へと船で運び出された。 菊池川、高瀬船着場跡と周辺の文化遺産は菊池川流域日本遺産の構成文化財に認定されている。
史跡「高瀬船着場跡」
高瀬船着場には、熊本藩によって整備された船着場の石垣や「俵ころがし」と呼ばれる米俵積み出しのための石畳の斜路が残っている。
明治10年、西南戦争の戦火で米蔵は焼失。鉄道開通により、水運の拠点としての役割も終えた。付近は西南戦争の激戦地で、西郷隆盛の末の弟小兵衛が銃弾に倒れた場所。
高瀬船着場では、玉名出身の日本マラソンの父・金栗四三が主人公の1人となった大河ドラマ「いだてん」のロケも行われた。俵ころがし(史跡「高瀬船着場跡」)周辺は釣り、散歩やランニングを楽しむ人が多く訪れ、市民に親しまれている。
高瀬船着場跡周辺では、菊池川の魅力を伝えるために活動している市民団体「菊池川おおかわの会」による」カヌーやSUP体験、和船乗船、ポニーや水辺でカフェなどの催し「菊池川あそび」が毎年開催されている。
高瀬御蔵
高瀬御蔵は、菊池川水運で搬入された流域の年貢米を集積し、検査をおこなった藩の施設。藩主の休憩施設である高瀬御茶屋に隣接していた。
西南戦争で焼失し、今では蔵の礎石が残るだけになっている。
肥後五か町と「高瀬」
高瀬は、中世には菊池氏の拠点が置かれ、その後海外貿易で栄えた川港のまち。菊池武光の弟武尚は高瀬に城を築き、その子武国は高瀬氏を称してこの地から菊池本家を支えた。
江戸時代、高瀬は「肥後五か町」のひとつに位置づけられた重要な町。熊本藩内の熊本、八代の両城下町と高瀬、高橋、川尻という主要な港町は「五か町」とされ、町方、町奉行の下に有力な町衆による自治が行われた。町衆は与えられた自治権と経済的特権をいかして盛んな経済活動を展開し、まちを活性化させた。
高瀬裏川に架かる高瀬目鏡橋は嘉永元年(1848年)完成の県指定重要文化財。三池往還での高瀬のまちへの玄関口にあたる場所。
西南戦争の戦禍で高瀬御蔵・高瀬御茶屋が焼失した後、明治・大正の近代化の歩みの中でも、高瀬は玉名地方の政治・経済・文教の中心でありつづけた。
高瀬商店街の背後に流れる高瀬裏川沿いには商家の石垣と石橋が残り、往時の繁栄を偲ばせる。川沿いの水際緑地には花しょうぶが植えられ、毎年5月中旬~6月上旬には多くの人が訪れる「高瀬裏川花しょうぶまつり」が開催される。
史跡「晒船着場跡」
江戸時代、米の積み出しで栄えた港町「高瀬」、「大浜」。
俵ころがしは高瀬だけでなく、晒(滑石) 、千田川原、大浜に設けられていた。
菊池川の最下流部に位置する玉名市滑石・晒(さらし)。高瀬御蔵の支所として整備され、年貢米を大型船へ積み替える中継地点となった。2基の俵ころがしが残る晒船着場跡は、2020年11月に玉名市の史跡に指定された。
年貢米を積み出していた「晒船着場跡」の石畳「俵ころがし」。
江戸時代には菊池川河口で船の出入りを取り締まるため、鉄砲や槍を備えた晒番所が置かれた。その後、天保5年には高瀬御蔵の支所として諸施設が逐次整備された。
歴史の道「菊池川」
玉名は、菊池川ととも発展したまち。
「菊池川水運」は1996年、文化的・歴史的に重要な由緒を有する道として文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。河川交通としては全国唯一だった。
2018年には「緑川水運」(熊本県)、「筑後川水運」(福岡・佐賀県)、「保津川水運」(京都府)が追加選定された。
「熊本藩高瀬米蔵跡」パネル展
玉名市立歴史博物館こころピアでは、国史跡指定の答申が出されたことを受けてパネル展を開催している。
期間 2022年6月18日~終了未定
場所 玉名市岩崎117 玉名市立歴史博物館こころピア
YouTubeチャンネル「玉名の自然、景観、風物詩。」
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