【吉備路を往く②】儒学者 中江宜伯 の足跡と、彼の墓地
岡山とその近辺の歴史や文化を再発見するシリーズ。第2回は、9歳で藩主に仕え、23歳で岡山の地に眠った、ある若い学者とその墓地に関するおはなしである。
花畠教場の歴史
時代は今から400年前、江戸時代初期である。近江の国(現在の滋賀県)に1人の儒学者が居た。
名前を中江藤樹(1608-1648)。
この時代、学問をするという事は「儒学」をするという事。幕府は中国の儒学の中でも「朱子学」を奨励し、幕政に取り入れた。儒学者としては林羅山などが有名である。
天より授けられた才能でもって、地を治めるとする、これが朱子学である。江戸時代の政策として進められた身分制度含む封建制も、こうした学問が下地となっていた。
これに並走する形で、江戸時代の儒教の潮流として「陽明学」を学ぶ者も居た。全ての生き物は同じ場所から生まれ、それぞれの「心」に合わせて形を変えていくものだとした。これは江戸幕府の進めた身分制度、封建制とは相反する学問であった為に、朱子学を信奉する勢力から批判された。
中江藤樹は、最初こそ朱子学を学んでいたものの、次第に陽明学に傾倒するようになる。そして、近江の地で様々な弟子たちと共に「誰もが心優しく暮らせる世界」を目指して、学問に励んだ。
農民、商人を問わずあらゆる人に教えを授ける姿勢から、中江藤樹は後の人に「近江聖人」と呼ばれることになる。
そしてこの中江藤樹の弟子の1人で、後に岡山藩政の改革の取り組んだ人物こそ熊沢蕃山(1619-1691)である。
熊沢蕃山は、自身の師匠である藤樹と共に学んだ陽明学を基礎に、藩政改革を推し進めた。当時の岡山藩主池田光政(1609-1682)も陽明学を奨励し、全国各地から陽明学者を集め始めた。
この学者たちが勉学に励む場として造られたのが、後に藩学となる「花畠教場」である。江戸時代のどの藩よりも先駆ける形で、学問を奨励した。
ここで招聘された学者の中に、なんと9歳の男児がいる。
彼の名は中江宜伯(1641-1664)。中江藤樹の長男である。彼は幼い時から才覚を発揮し、9歳になった時に岡山藩主池田光政に招聘された。
岡山市史によると、「慶安四年三百俵二人扶持で備前藩に仕え池田光政に儒をもって用いられた」とある。
その後23歳の若さで亡くなるまで、彼は岡山で熊沢蕃山らと共に、儒学を学び教えたという。
中江宜伯と墓地の再発見
中江宜伯の情報は少ない。しかし1963年、彼の没後300年を記念した法要が営まれ、「吉備外史自宅刊」というタイトルの冊子が発行された。著者は渡辺如水氏となっている。
渡辺氏の手書きの文章十数ページにより構成されるこの冊子は、現在は岡山県立図書館で閲覧することができる。現代人には読みにくい字であるが、冒頭にはこう書かれている。
渡辺氏は墓を元にその歴史を紐解く活動をしていたようだ。そして岡山市中区の平井山の地区に、当時としては立派な墓があるのを見つけて、そのルーツを探ろうとしたのだ。
そして中江宜伯の弟の子孫が対馬に暮らしているのを見つけて、1963年に宜伯の没後300年の法要を営み、子孫に話を聞くこともできた。
渡辺氏は宜伯について次のように綴っている。
宜伯について詳しく窺い知ることはできなかったが、9歳の若さで仕官したのであるから、特筆すべき頭脳の持ち主だったのだろう。
宜伯の墓について
さて、渡辺如水氏の発見した墓についてだが、冊子には詳細に高さや碑文の内容が記載されている。手書きの素朴な文字であり、筆者には全てを読み解く事ができなかった。
そこで筆者は、実際に現地に赴いて墓地を見たいと考えた。
宜伯の墓は特殊な構造になっている。通常四角形で作られる墓碑の土台部分が六角形になっており、この構造の墓碑はまだ見たことがない。
現在、平井山と呼ばれる場所は岡山市中区にあり、市営墓地となっている。山全体が墓地であり、数千以上の墓が並ぶ地区である。この中から宜伯の墓を探し出すのは難しいと思われた。
渡辺氏の冊子に簡単な地図がある。宜伯の墓の位置は墓地の真ん中にある寺である上生院の東側で、平井越えと呼ばれる道が記載されている。
まずは墓地について詳しいであろう上生院を訪ねてみた。しかし、応対されたお寺の方は「そんな偉い人がおられたとは」という事で、ご存知でなかった。その日は諦めて退散した。
筆者は結局、2015年に墓地を訪れたという県立図書館の司書さんを頼る他なかった。司書さんの記録された墓地の位置は、グーグルマップでは下図の通り。
そこで私は、再度墓地を探しに出かけた。場所はちょうど平井山の山頂部分であった。墓地の中をうろつく事十数分、お目当ての墓碑を見つける事ができた。
渡辺氏の冊子にも図案として示されていた通りの形の墓碑で、墓碑銘も「中江氏宜伯之墓」となっている。間違いなく宜伯の墓碑である。
特筆すべきことに、墓地は綺麗に整備され、誰も整備していないであろう墓地に比べて雑草もほとんど生えておらず、誰かの手によって綺麗に保たれていた。
墓碑の裏側には、彼の一生の様子が記載されている。これは薄れて読み辛くなっているが、渡辺氏の冊子にはこれと同じものが転写されているので、また暇なときに図書館に行って読み解こうと思う。
この墓地内には他に4個の墓碑があり、おそらくその方の子孫や、中江氏の子孫らによって、綺麗に保たれているのであろう。
墓地からは、彼が少年時代から青年時代を過ごした岡山平野を、綺麗に見渡す事ができた。
最後に
今年は中江宜伯の没後360年にあたる。彼を知る人は少なく、おそらく法要なども行われないだろうが、こうしてインターネットの片隅に彼の足跡を残せる事は、筆者にとって喜ばしいことであった。
中江藤樹の息子3人は、それぞれ9歳になる度に池田光政によって召し出され、学問を教えた。これは後の岡山藩学だけでなく、多くの人に影響を与えた。
その1人が、幕末に備中松山藩の藩政改革を行った山田方谷(1805-1877)である。彼の藩政改革は日本一成功した例とも言えるが、その基礎には熊沢蕃山や中江宜伯らの研究した陽明学が基礎になっていることは、ここで書いておきたい。
次回の「吉備路を往く」シリーズでは、近代に遡って、岡山県民なら誰もが慕うあの偉人と、彼の建立した大仏について、詳細に調べて書こうと思っている。
季節は春に向かっている。暖かい日差しが、吉備路を温めている。