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皆ひとつ―愛するということ②―:M.F
愛といえば、親子愛、夫婦愛、恋愛、友愛など様々なものが思い浮かぶと思います。
私にとって、この四つに関しては、今までの人生で経験してきたものでもあります。
私が親を愛し、子供を愛し、伴侶を愛し、友人を愛するとき、はたしてそれは本当に愛していると言えるのだろうか・・
私が相手を愛している、そこには「私が」の我が入ってくることは否めない。
それはあくまでも私中心の愛であるようにも思えます。
よって時には様々なものが付随してついてくることもあります。
例えば嫉妬や独占欲、支配欲や甘え、失うことの恐怖心などなど。
そんなものがつきまとってくる時もあります。
つまり自分が愛するというよりも、相手から愛されたいという気持ちの裏返しや、
相手を愛していると言いながら、自分自身のために愛していることに気がついていないときもあるかもしれません。
相手の気持ちに寄り添って、相手の気持ちになって考えることはそう簡単なことではありません。愛の押しつけになっている場合だってなきにしもあらず。
一方で、相手に心から尽くす、何も見返りを求めない無償の愛というものも確かにあると思います。
それは誰でも、一度は、たとえ一瞬でも経験したことがあるのではないでしょうか。
私も振り返ってみると、子供が生まれ、育てはじめたころは、そんな時期があったようにも思えます。
そういう時は自他のへだたりがないような、自他が一つにとけ合うような感じもします。
そして神の愛とは? すべてをいかし、すべてに分け隔てなく降り注ぐという・・
そのようにいろいろ愛というけれど、本当の愛とはいったい何なのだろう? いったいどういうものなのだろうか?
あくまでも個人的なものではありますが、少し考えてみたいと思います。
人間も動植物もあらゆるものは別々に存在し、つながっているとはなかなか思えない。
でも、見ること、聞くこと、触れることなど、つながっているからこそできるのだと思います。
つながっていないものは、そこにそのような作用を見出すことが出来ないと、物理的にも考えられるのではないでしょうか。
表面的にはつながっていないようにみえるすべてのものは、奥のどこかでつながっている。
心でつながっているとか、意識の世界でつながっているともよく言われることですね。
そしてすべては物理的に宇宙から生れ出たものであり、その宇宙ともつながっている。
さらに宇宙をも創造している何かもとの存在・・
それを神と呼ぶかサムシンググレートと呼ぶか生命とよぶか・・
それが動くときはエネルギーや波動と呼ばれ、あらわれる時は光と呼ばれるのかもしれません。
そしてその神は「何にでもなり得る存在」とも考えられるのではないでしょうか。
植物にも、動物にも人間にも宇宙にもすべてになりうる存在。
その神が個々の存在のもとであり、そこですべては一つにつながっている。
初代宮司本山博著書『超感覚的なものとその世界:宗教経験の世界』(宗教心理出版、1990年)の中の一節
「高位の神ほど自己の殻という限定をもつことが少ない。その限定をもたざることが最高度に達したる精神存在が神(最高神)である。この自己をもたざる神は、自己をもたざるがゆえに、無限に他になりうる。ここに一切が創造される秘密が存する。」(184頁)
ともあります。
もとである神が、自己をもたざるがゆえに自己実現のために様々な形であらわれたとは考えられないでしょうか。
(この自己実現という表現は玉光神社では明言されているものではないので、あくまでも私個人の表現です)
それを実際に体現するためにあらわされたのが、人間という姿形であるとも・・
人間は小宇宙だともいわれます。
そして陰陽になり、男女の形になり、次々と広がって自分を無限にあらわしていく。
無限に他になりうるのならば、神は無限的存在であるとも思われ、人間としてあらわされているがゆえに人格的存在であるとも考えられるのかもしれません・・
よって別々に見える人間の本体はその神であり、各々は皆そこでつながっている。
つまりそのもとの神のみが存在の根源であり、それのみが存在しているものといえる。
もしそうならば、それが自分自身であり、すべてであることになると思います。
つまり究極的には、自分しか存在しない。それは自他一体の自分。
神=自分=他となる三位一体ともいえる世界。
(仏陀の天上天下唯我独尊とはそういう意味にもとれるのではないだろうかと思ったりもします・・)
初代宮司本山博著書『チャクラの覚醒と解脱』(宗教心理出版、1990年)
「神様と一つになった時の自分の気持ちというのは、宇宙とか地球とか、人類とか、そういうものが皆自分の中にある。人間を見ても、土を見ても、木を見ても、何を見ても自分と同じというふうな感じがする」(349頁)ともあります。
しかし、自己実現のために人間という形をとり、互いを認識する時に、自他別であると認識して、本来の本質を見失い、その後争いにまで発展してきてしまったとは考えられないでしょうか。
まるで右手で左手を傷つけているようなものなのに。
(創世記の知恵の木の実を食べ、イチジクの葉で隠す羞恥心はそのような自他別としてとらえるようになったという意味にもとれるのではないでしょうか・・)
自己実現の創造の際の、認識をするときに生じたものであり、時空間を超えたところでは、ただ一瞬の出来事にすぎないのかもしれません。
しかしもしそうならば、肉体がいくら傷ついても、それは一つの現れであり、その本体神は何も傷ついていないとも考えられます。
そして人間は自他別のくせがついているので、なかなかそこを抜けられず、思い出すことができない。
でもいつか必ず自分が何であるかを思い出せるはず。
本当は難しいことなど何一つないのでは?
ただ気がつけばよいのかもしれない。気が付けば何も迷っていない、今ここにすべてがある。
子供でも分かることなのかもしれない。
すべて自分、自他ひとつ、自他の区別がない、そこを思い出せば、愛しかない。
調和しかありえない。
もしそうならば、それが本当の愛というものなのではないでしょうか。
すべて自分の内にあり、すべて自分だから、おのずと愛になり、
動けば自然に愛と調和になる。愛そのものの世界。
そこではすべてがいかされている。
よって神は愛である。神はあらわれれば愛になる。
そのお互いがつながっているもとの神のところに、常に自分を置いていれば、おのずと何がすべてにとって最もよいものなのかがわかり、無為自然ともいうべく、おのずとすべてにとって最もよい調和の方向へと自然に進んでいくことができるように思えます。
教祖本山キヌエ御教え歌に「教へにも我なきわれにかへりなば玉の光の身にぞかがやく」とあります(本山キヌエ『玉光神社 教祖自叙傳』宗教心理出版、1984(1975)年、第二版、40頁)。
必ずいつか時が満ちたら、一人また一人と、真理の愛が光の波動となって自然と浸透していくのではないでしょうか。
存在そのものが、光そのものになれば、そこにいるだけで、光がひろがっていくというのが、自他一体の本来の愛のあらわれであるような気もします。
そしてこの世から争いがなくなり、皆がひとつにつながって、光の世界、愛の世界 神の世界があらわれますように。