戦争終結と祈りについて2(ランベイゴウ):ひろり
ロシアのウクライナ進攻から2年以上経過し、戦争終結の見通しは立っていない。ハマスとイスラエルの戦いも、停戦の仲介努力が続く中、被害が拡大し、さらなる戦火の拡大の懸念も出てきている。
1964年に本格化したベトナム戦争において、アメリカ政府は翌1965年には、クーデターによる政権交代の頻発する南ベトナム政府・軍の動向に危機感を募らせ、北爆にも地上戦での敗戦にも動じずに南部への浸透(軍隊の派遣や南部農民の軍事徴用、食料や軍需物資の輸送)を増大させる北ベトナムの戦いぶりに極めて厳しい戦況を見越し、和平交渉に活路を見出す。国防長官マクナマラは、7年間の在任期間中ただ一度、同僚達を出し抜いて、1965年12月27日、ジョンソン牧場で休暇中のジョンソン大統領を単独で訪問し、クリスマス期間中の北爆中止を無期限に延長し、大がかりな外交努力を開始することに、大統領の同意を取り付けた。(ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録:ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、1997年、P306)その後すぐ、アメリカは、国連ルートや東欧ルート等の様々なルートで和平の道を探る。
広瀬陽子(現慶応大学教授)「ベトナム戦争とソ連:パリ和平会談までの和平工作を中心に」(『本郷法政紀要』NO.6、1997年)によると、ベトナム戦争が続く中、1965年から1968年にかけて、断続的に、ソ連や東欧諸国やイギリスを仲介役とする和平の動きがあった。その中で、1965年12月のポーランド名「ランベイゴウ」は、マクナマラらが推進した東欧ルートの交渉に対応する。当時北ベトナムでは、1965年12月の共産党中央委員会で、それまでの断固戦争継続方針から、和平交渉と戦争を両立させる方針に転換があった。しかしソ連は北ベトナムが未だ和平交渉に傾斜しきっていないことから、ポーランドに交渉をやらせていた。東欧諸国は、遙か東南アジアの社会主義国への援助負担を軽減したいことから仲介に熱心であった。「ランベイゴウ」とはポーランド語で「腰痛」とのこと。
具体的な経過を上記回顧録および上記論文から記載すると、
交渉は、中国の北ベトナムに対する戦争継続の圧力と、交渉中も南部への浸透を続ける北ベトナムに業を煮やしたジョンソン大統領による北爆再開指示をきっかけに潰えた。
マクナマラは上記回顧録の中で、「失敗の原因はわれわれの気のきかない姿勢のせいか、あるいは北ベトナムの非妥協的態度のためか、それともある程度までこの両者の組み合わせによるものだったのでしょうか?北ベトナムが政府の記録を公開するまで、その答えは出てこないでしょう。(マクナマラ回顧録P312)」と書いている。マクナマラはこの時期の北爆停止と和平交渉に上記回顧録の1章を割いており、この和平交渉に大きな期待を寄せていたこと、また失敗による落胆も大きかったことが伺われる。
この時期、玉光神社では、代人本山キヌエを通じて、信者にベトナム戦争の終結のための祈りをするようにという御神言があり、信者とともに一生懸命に祈ったという記録がある。(本山キヌエ『玉光神社 教祖自叙傳』宗教心理出版、1973年、P202~206)
1965年12月22日
1966年1月13日
1月17日
1月29日
「ランベイゴウ」は破綻し、その後も「マリゴールド」、「サンフラワー」などの暗号名の和平交渉が続くが、いずれも交渉期間中の北爆をきっかけに、交渉は決裂する。北爆はアメリカの立場からすれば交渉期間中も南部への浸透を止めない北ベトナムに対する政治的に妥協困難な報復であった。
ベトナム戦争の犠牲者は800万人以上と言われる。戦争を続ける両陣営にどんな大義や目論見があろうとも、御神意は「和平を誓う」ことにあったとすれば、それを理解した側のリーダーが政治的には困難な妥協を敢えて行う「気のきいた態度」を貫くことが求められる。上記回顧録の中で、マクナマラは自分のベトナムへの地上戦力大量投入方針が誤りだったと述べている一方、ジョンソン大統領が、戦力の大量投入を政府単独で決め、その都度議会の承認を得る努力をしなかったことも問題だと指摘している。衆議には御神意を反映する智慧が隠されているということであろうか。