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昼休みの散歩③:HS

会社の昼休みの散歩を続けて数年経ちます。北風の寒さに耳の痛みをこらえながら風に向かって散歩をした冬が終わり、木の芽が芽吹き、菜の花や桜の花を観賞しながら散歩していると、豊かな自然を味わえる場所で働けて良かったと思います。

玉光神社宮司が教える行為になりきる練習の中に、五感を使って散策をしながら世界をありのままに鑑賞する練習があります。五感で感じるものに対して、好き嫌いの感情をおこさず、これは何だ、これは鳥の声だ、これは檜の木だという推論をしないように散歩しながら練習するというものです。

最初は散歩の道すがら、田畑の作物の様子やカラスやキジの鳴き声で心が動かされ、色々と連想したり仕事について思い巡らせたりしがちです。それに気がつくと景色の方に意識を向け直してそのまま鑑賞を続けます。歩みとともに感じたままを順々に受け入れていると、しだいに自分が歩く足音や足下の草花にも意識が向いていきます。なるべく心を動かさないように田園風景を味わっていると、景色やものというような対象を鑑賞している自分という意識や動き回る心が静かになってきて、鑑賞している対象がただそこにある存在と感じることがあります。

稲盛和夫氏の著書『生き方:人間として一番たいせつなこと』の中で、瞑想の意識で世界に向き合った状態について引用している記述があります。

イスラム学・東洋哲学の大家である井筒俊彦さんは、人間の本質とは何かということに関して次のような意味のことを語っておられます。
―――人間の本質を解き明かそうと瞑想をしていくと、精妙で純粋な、限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識はハッキリとあるが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としかいいようのない意識状態になる。それと同時に、森羅万象すべてのものが、存在としかいいようのないものから成り立っていると意識できるようになる。その意識状態こそが人間の本質を示しているのではないか――― 
 この井筒さんの言葉を受けて、文化庁長官で心理学者の河合隼雄先生は「あなたという存在は花を演じておられるのですか。私という存在は河合を演じているのですよ」と花に語りかけたくなると、ユーモラスに述べておられます。ふつうは花を見て、「ここに花が存在する」といいますが、これを「存在が花をしている」といってもいいのではないか、というわけです。

稲盛和夫氏の『生き方:人間として一番たいせつなこと』サンマーク出版、2004年、第5章(240~241頁)

30分程度の散歩では、五感がなくなるほどの集中は得られませんが、鑑賞している自然と自分との距離が少し近くなり、一つながりになっている様な気がすることがあります。冬の間枯れ枝で寂しそうだった樹木の芽吹きや、枯れ葉の間から顔を出す可憐な花びらを見ると、よく頑張ったねと声をかけたくもなります。また青空の下、木々の芽吹きで日々少しずつ変化している山を見ると、自然を動かしている大いなる力に感謝の気持ちが湧いてきます。