ポットを棚に片づけた、小さなすっきり。
台所に出していたティファールのポットを棚に片づけた。
それに毎日使うからと置いていたホットクックも。
片づけたとたん、台所が広くなった。
いきなりなんの話?、と感じた人もいるだろう。
わたしは自他ともに認める、めんどくさがりや。
そして片づけられないひとである。
片づける必要性も意味もわからなかった、いやまだわかっていない。
ティファールのポットは、いまの家に暮らすときにやってきた。
毎日使うものだから、そこにいることが当たりまえの存在だった。
毎朝のコーヒーを入れるためにお湯をすぐに沸かしてくれる、わたしの相棒だ。
けれどふと昨日、目についた。
「棚の中にしまってみる?」
そう思い、片付けるとすっきり。台所が広くなった。
わたしにとって、毎日同じ場所で使うと決まっているものを毎回使用後にわざわざ片付ける必要性や意味がわからない。
だって非効率だ。
わざわざ片付けても、翌日また必ず使うこと、出すことがわかってるのだから。
それでも片付けて感じる、すっきり感。
効率化や時間短縮、動作を減らす、といったことに尽力していた自分では感じたことのない感覚だった。
すっきりとか綺麗、整った暮らし、綺麗な部屋。
整理整頓、掃除。
片付けなさい!という母の声、学校での掃除の時間や掃除当番という決まり。さまざまなルールや規則で組み込まれた掃除や整頓。
知らず知らずのうちに「あるべき綺麗」「あるべきすっきり」に自分が支配されていてそこに心地悪さを感じていたのかもしれない。
ポットの片づけ。そんな思いつきからの小さなすっきり。
いつどこに変化やチャンスがあるかなんて、本当にわからないものね。