認知症日記(6) 認知症家族になって思うこと
認知症関係の本に書いてあったのだと思う。医師に聞いた「なりたくない病気No.1」は、認知症だという。
一方、がん患者の方が「死ぬならがんがいい。死ぬまでに時間があるからいろいろ準備ができる」と、書いていたのを読んで、なるほどなあ、と思った。
認知症というのは、認知機能が失われていくので、かなり早い段階で「自分が死ぬまでにしておきたいこと」をやらないと、厳しい気がする。家族は毎日顔を合わせているから、ぼんやりと「あれっ?と思うことが増えたなあ」と思いながら時間が経ってしまう。本人はなおさらだろう。だから、認知症がはっきりしたときには、すでに本人が「自分がしておきたいこと」を考えるのが難しいようだ。うちの夫の場合だけかもしれないけれど。
よく思うのが、人としての尊厳とはなんだろう? ということだ。
ケアマネージャーさんや、デイサービスの職員の方々と話す機会が増えた。彼らはみんな、私に対しては普通の、つまり、初対面や数回会った程度の相手に対する口調なのだが、夫に対しては突然、子ども相手のような口調になるので、けっこう驚かされる。
これは、どういうわけだろう? ある程度は仕方ないとは思う。かつて私も、義父をホームに見舞いに行ったとき、最初は「プリン、召し上がりますか?」と訊ねたものの、通じないので「プリン食べる?」と、言葉を短くするしかなかった。
けれど、うちの夫は今現在、まだ会話はできるし(もともと無口だから口数は少ないが)、理解力も残っている。夫の認知機能を見極める前から、いきなり口調がアレなのは、どうなんだろう?
(最初に担当してくださった地域包括支援センターの担当の方は、夫に対して私に対しても、口調はほとんど変わらなかった)
とはいえ、介護に従事している方々を責める気は毛頭ない。それどころか、私にはできないことで、本当にすごいと思う。
言葉の通じない/何を考えているのか理解できない相手の世話をする、というのは、ものすごい忍耐力が必要だろうと思う。才能というか、適性がだろう。
社会的にも、認知症と他の病気は扱いが違う気がする。
いや、認知症に限らず、本人の意思表示が難しくなった途端、いろいろと制限がかかる。
あくまで噂だが、銀行に認知症がバレると、預金が凍結されるという。そうなると、凍結解除のためには成年後見人を立てるしかない(このあたりは、もっといろいろあるようだ。我が家は別の手段を講じているが、その話はまたいつか)。
しかし、この成年後見人の使命は、「本人の財産を守ること」なので、なかなか大変らしい。子どもが親を旅行に連れて行こうとして、親の預金を使おうとしても、成年後見人に認められなかった、という話を聞いたことがある。
夫の銀行口座を減らした。(お金のことは任せっきりだったのだが、通帳を確認したら10冊も出てきて呆然とした。昔の口座をみんな残していたらしい)。もう、運転免許の更新は無理だろうし、医療保険なども「各種変更や請求、解約をできる家族の登録」をした。先々のことを考えると、車の所有者名義も変えた方がいいかしれない。自署が必要な書類が書けなくなるので、自動車保険の更新が危ない。
夫が他の病気になっても、治療方針を自分で判断することも難しい。
だから夫の社会的な権利を代行したり、かわりに選択しなくてはならない。夫が社会的な意思決定の世界から、フェードアウトしていく。これはちょっと、つらい。
この社会で一人前と扱われるためには、「理性と意思を持っていること」と、「それを表現うること」が必須らしい。たしかに、意思の確認が取れないのだから、本人に「判断」することは、難しくなる。
どうしたら、人としての尊厳は守られるのか?
そもそも、人としての尊厳とは何か? 答えはまだ出ない。
しかし、確実に言えることは、最も夫の尊厳を損なう可能性があるのは、私であろう、ということだ。
ともかく、イライラしてしまう。トンチンカンな行動が増えるし、話は通じず、相手が何を言いたいのかも分かりにくい。
夫の診察のときに、医師に
「私がつい、イライラしてしまって………」と言うと、
「それは、『家族あるある』ですね」と、返された。
まあ、そうだろうなあ、とは思う。家族の認知機能の低下を認めたくない気持ちもあるから、余計にイライラしてしまうのだろう。
私のイライラが、夫には悪影響だ。落ち着け、私。
そんな私を日々、助けてくれている(?)のが、猫のトロロである。我が家には子どもがいないので、夫の退職のタイミングで保護猫だったトロロを招聘したのだ。
猫はえらい。
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