【感想文】女生徒/太宰治
『 "女と畳は新しい方が良い" と言えば嘘になりうべからざらんやにあらずんばあらず』
太宰治の小説には、女性による独白形式のものが16作品存在する。
その初出は『燈籠』(1937年)に始まり、2作目が本書『女生徒』(1939年)である。『燈籠』は終始一貫したフィクションだが、『女生徒』は「有明淑(しず)」という実在する人物の日記を典拠として、太宰が修正を加えたものである。よって、両作品は「女性による一人語り」という形式は共通しているが「典拠の有無」という下地が異なる。
この差異が作品にもたらす影響・効果について以下に説明する。
■『女生徒』の特徴:
彼女の独白における象徴的な性質を挙げるなら、
<<ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟だけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のような柔軟性でもって、このまま浪のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。>>
という箇所であり、不得要領な説明の展開は、トコロテンに例えたところで真意不明である。さらに注目すべきは読点( 、)の多さである。引用箇所に限らず、全般を通して読点が非常に多く、ここが語り手の若さゆえの不安定な心理の表れとなっており、女性的という点においても自然である。私は左記に「自然」と書いたが、太宰は「有明淑の日記」に依拠したのだから ―― そもそも日記とは、自分のために自分で用意した言葉なのだから、『女生徒』の独白が自然かつ現実味があるのは当然かもしれない。
■『燈籠』の特徴:
作品のあらすじは「24歳の女性がある青年を恋するあまり、窃盗を犯してしまいその苦悩を語る」といった話である。以下に示す『燈籠』からの引用は、警察官の尋問に対する彼女の弁解である。
<<私を牢にいれては、いけません、私は二十四になるまで、何ひとつ悪いことをしなかった。弱い両親を一生懸命いたわって来たんじゃないか。いやです、いやです、私を牢へいれては、いけません。私は牢へいれられるわけはない。二十四年間、努めに努めて、そうしてたった一晩、ふっと間違って手を動かしたからって、それだけのことで、二十四年間、いいえ、私の一生をめちゃめちゃにするのは、いけないことです。 -- 中略 -- 牢はいったい誰のためにあるのです。お金のない人ばかり牢へいれられています。あの人たちは、きっと他人をだますことの出来ない弱い正直な性質なんだ。人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、あんなばかげたことをして、二円、三円を強奪して、そうして五年も十年も牢へはいっていなければいけない、はははは、おかしい、おかしい、なんてこった、ああ、ばかばかしいのねえ。>>
この引用について、没論理的で脈絡のない話の展開という点では『女生徒』と共通している。だが、『燈籠』の引用箇所の方が読みやすく、非常に饒舌である。ここが妙ではないか。つまり、話が論理破綻していたとしても、小説家の巧みな表現力により、読者は意外にも円滑に読めてしまう為、かえって白々しく不自然なのである。この語りは『女生徒』に比べて作為の感が出ている。
以上を総合すると、読みやすさ・面白さという点では『燈籠』の独白であり、自然体・生きた言葉が現れているのは『女生徒』の独白である。いずれにしても、両作品共に太宰の意匠が凝らされているのは間違いない。
といったことを考えながら、この感想文を渋谷のギャルサーに持ち込んで発表したところ、代表のギャルに『言いうべくんば,「人間は理性的動物である」という命題の真偽を横断的分析アプローチを用いて有用性及び実証性をメトリクスとした作品見解を感想文に代えて提示するのが有意義であろう。あと、いい波乗ってんね』と言われた。
以上